ナーシルッディーン・マフムード・シャー (奴隷王朝)

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ナーシルッディーン・マフムード・シャー
奴隷王朝第8代君主
ナーシルッディーン・マフムード・シャーのコイン
在位 1246年6月12日 - 1266年

死去 1266年2月18日
デリー
王朝 奴隷王朝
父親 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ
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ナーシルッディーン・マフムード・シャー(Nasir ud din Mahmud Shah, ? - 1266年2月18日)は、北インドデリー・スルターン朝奴隷王朝の第8代君主(在位:1246年 - 1266年)。父は第3代君主のシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ[1]

生涯[編集]

1246年6月、ナーシルッディーン・マフムード・シャーは甥アラー・ウッディーン・マスウード・シャーの廃位後、トルコ系貴族でチェハルガーニーの一人バルバンらによって擁立され、同月12日に即位した[2]。彼が推戴された理由としては、バフラーイチにおける善政によるものだ、と後世の歴史家フィリシュタは語っている。

バルバンはマフムード・シャーの父イルトゥトゥミシュの没後に頭角を現した人物であるが、野心家であった彼は摂政(ナーイブ)として、政権内の組織を着々と手中に収めるとともに、自身の立場を固めていった[2][3]。また、1249年にマフムード・シャーはバルバンの娘と結婚し、その治世はバルバンの影響力がさらに増すところとなった[2]。彼はバルバンに「ウルグ・ハーン・アーザム」の称号を与えるとともに、国軍の指揮官にも任命した[2]

とはいえ、1253年にマフムード・シャーはバルバンに匹敵する強力なインド人貴族イマードゥッディーン・ライハーンの助力を得て、バルバンを宮廷から排除し、デリーから彼のナーガウルイクターに追いやった[2][4]。トルコ人に変えて非トルコ系の人材に行政を委ねる形となった[5]

だが、1254年になり、トルコ系士官らが反乱を起こしてデリーを包囲すると、バルバンは自身のイクターからデリーに戻った。彼は政権復帰の交渉を行って復帰し、ライハーンは自身のバダーユーンのイクターに追いやられた[6][3]。翌1255年、ライハーンは殺害された[3]

そのうえ、バルバンはマフムード・シャーに対し、王族を象徴する白い日傘(チャトル)といった王の所持品を渡すよう命じた[5][7]。 そのため、バルバンは貴族の一人にすぎないながらも全権を掌握し、マフムード・シャーを傀儡(ノムナ)として国政を牛耳った[5]

マフムード・シャーは何も成せないまま、1266年にデリーで崩御した[5]。バルバンによって毒殺されたのだという。嗣子がなかったため、姻戚関係にあった摂政であるバルバンが王位を継承した[8]

脚注[編集]

  1. ^ 荒『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』、p.57
  2. ^ a b c d e ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.118
  3. ^ a b c チャンドラ『中世インドの歴史』、p.77
  4. ^ Medieval India From Sultanat to the Mughals-Delhi Sultanat (1206-1526 ... - Satish Chandra - Google ブックス
  5. ^ a b c d ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.119
  6. ^ Indian History Google ブックス
  7. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.78
  8. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.120

参考文献[編集]

  • 荒松雄『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』未来社、2006年。 
  • フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。 
  • サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。 

関連項目[編集]