ラズィーヤ

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ラズィーヤウルドゥ語風の読みではラズィヤー/ رضیہ , Raziya, 1205年 - 1240年)は、13世紀に北インドを支配した奴隷王朝の第5代の君主(在位:1236年 - 1240年)。女性のスルターン(スルターナー)である。

父王シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュは、息子たちに王位にふさわしい者がいなかったため、娘のラズィーヤを王位につけることを決めて貴族や神学者(ウラマー)たちにこの指名に賛同するよう促した。しかし、ラズィーヤは、父王の指名があっても決して安泰ではなく、強力なチャハルガーニー(「四十人」)と呼ばれたトルコ系の貴族や自分の兄弟たちとも戦わなければならなかった。これらの貴族たちは自分たちの意のままになる傀儡を王位につけようと望んだが、ラズィーヤには、政治的軍事的才能があったので、彼らの思い通りにはならなかった。彼女は、女性の服装を捨て、顔を覆わずに宮中会議をとりおこなったり、自ら狩りにでていったり、戦場では、自ら軍を率いた。

一方、彼女が王位に就くことに反対したワズィール(宰相)、ニザームル・ムルク・ジュナイディは、貴族たちの反乱に味方し、反乱軍を支えたが、ラズィーヤと戦って敗れ、逃亡せざるをえなくなった。またラージプートの勢力を抑えるため、ランタンボールに遠征軍を送り、一時的であったが王国全土を安定させるのに成功した。

ラズィーヤは、自分に忠実な貴族たちの党派をつくるため、アビシニア人貴族のヤークート・ハーンなど非トルコ系の人間を高い地位に就けようとしたが、これがトルコ系の貴族の間に反発を引き起こした。このとき、ラホールスィルヒンドで反乱が起こったので、彼女はラホールへ向かって自ら遠征軍を率い、反乱側のその地の知事を従わせた。スィルヒンドへ向かう途中、遠征軍内部に反乱がおき、ヤークート・ハーンが殺され、ラズィーヤはタバルヒンダ(バーテインダ)で捕らわれた。しかし、ラズィーヤは、自分を捕らえたマリク=アルトゥーニア英語版を説き伏せ味方に引き入れて、結婚した。

その後、デリーに帰還しようとして、反乱側のトルコ系の貴族と勇敢に戦ったが、敗れ、逃走中に賊徒に殺された。その時男装のままだったため、当初賊徒は遺体がラズィーヤだとは気づかなかったという。ラズィーヤは、妹のサズィーヤとともにオールド・デリーの目立たない片隅に葬られている。

参考文献[編集]

  • サティーシュ・チャンドラ/小名康之・長島弘(訳)『中世インドの歴史』,山川出版社,1999年 ISBN 463467260X

史料[編集]