テレン

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テレン(Telen、1218年 - 1281年)は、ジョチ・ウルスに仕えたナイマン人。『元史』などの漢文史料では鉄連(tiĕlián)と記される。

概要[編集]

テレンはナイマン部の出身で、祖父のベク・ブカ(伯不花)はジョチ家のバトゥに王傅として仕えた人物であった。チンギス・カンによる金朝遠征の際、ジョチは平陽路(現在の山西省南部一帯)を投下領として与えられており、ベク・ブカの一族はその縁から絳州に居を構えていた。テレンもまた若くしてバトゥの宿営(ケシク)に仕え、バトゥはテレンを隰州ダルガチとし、1260年代初頭には更に平陽馬歩站ダルガチに転任した[1]

1260年代後半、中央アジアではオゴデイ家のカイドゥの勢力拡大が顕著となっており、大元ウルスの朝廷ではカイドゥを討伐すべし、という意見が上がっていた。これに対し、クビライは「朕は同じ一族としての情を以て、自らの徳によりカイドゥを帰順させるつもりである。[一族の融和のため]大事を任せるに足る使者を選出せよ」と述べ、これを聞いた臣下はテレンを推薦した。

クビライに召還されたテレンは弁舌の巧みさを気に入られ、クビライより「この事業は汝にとって不可能ではないであろう。但し、必ずジョチ・ウルス現当主のモンケ・テムルを先に訪ね、事前に相談した上でカイドゥの下を訪ねよ」と命令された。命を受けたテレンは2人の副官と共に出発したが、クビライの命に逆らってまずカイドゥ・ウルスの領域を目指し、その実状を見極めてからモンケ・テムルの下を訪れようとした。これを知った副官は「私たちは陛下よりまずモンケ・テムル王と協議するよう命じられました。今になって急に敵国の領域に近づくべきではありません」とテレンの計画に反対したが、テレンは「私は陛下自らより密旨を受けている。汝らが私に従わないというのなら誅殺せねばなるまい」と述べたため、副官は恐れてテレンの行動に従った[2]

テレンがカイドゥ・ウルスに到着すると、カイドゥはテレンを宴会に招き隙を見てこれを謀殺しようとした。カイドゥの企みを察知したテレンは声を張り上げこれを制止し、「何も語らず、食事を続けましょう。貴方は私が口を滑らせるの待って、それを罪とするつもりなのでしょう?」と述べた。これを聞いたカイドゥはややあって「率直な人物である」と述べ、テレンの謀殺を取りやめた。酒が進みテレンが着るものを求めると、カイドゥは自ら服を脱いで与えようとしたが妃に止められ、皮服を2着テレンに与えた。カイドゥはテレンを評して「使者たる者はかくの如くあるべし」と述べ、テレンが出発する際には厚く贈り物をして往かせたという[3]。その後、テレンがモンケ・テムルの下に辿り着くと、モンケ・テムルは祖宗の訓(ビリク)を引用し、反乱者たるカイドゥの討伐には協力を惜しまない旨をテレンに伝えた[4]

クビライの下に帰還したテレンは見聞したことを全て報告し、クビライには「カイドゥの兵は多く強力であり、速戦すべきでありません。カイドゥが攻めてくれば守りを堅くして防ぎ、敵が去れば追撃するのが良いでしょう。守りを堅くすれば、慮ることは何もありません」と自らの意見を述べた。クビライはこの意見を取り入れ、テレンには数え切れないほどの賞賜がなされた。また、テレンがカイドゥより与えられた皮服には金の飾り付けを施させたという[5][6]

テレンがジョチ・ウルスと大元ウルスの往来を始めてから14年経った至元17年(1280年)頃、クビライはそれまでの功績からテレンを中央政府の要職につけようと図った[7]。しかしテレンはクビライの申し出を断って、これを聞いたクビライはテレンを要望通り絳州ダルガチの職につけた[8]

至元18年(1281年)、テレンは病によって64歳にして亡くなった。息子のダラタイ(答剌帯)が後を継ぎ、官信武将軍・同知大同路総管府事となった[9]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻134列伝21鉄連伝,「鉄連、乃蛮人也、居絳州。祖伯不花、為宗王抜都王傅。鉄連魁偉寡言、有謀略、早歳宿衛王府。抜都分地平陽、以鉄連監隰州。中統初、調平陽馬歩站達魯花赤」
  2. ^ 『元史』巻134列伝21鉄連伝,「至元初、宗王海都叛、廷議欲伐之、世祖曰『朕以宗室之情、惟当懐之以徳、其択謹密足任大事者往使焉』。左右以鉄連対、遂召見、語及大事、鉄連応対称旨。帝嘉其辯慧、曰「此事非汝不可、然必先詣抜都蒙哥鉄木王所、相与計事而後行』。使二人副之。鉄連既奉命、欲直造海都境、視其虚実、然後議于諸王。副者弗従、曰『上命我輩先議于王、今遽造敵境、不可』。鉄連曰『親承密旨、汝輩違則当誅』。副者懼而従之行」
  3. ^ 『元史』巻134列伝21鉄連伝,「既至、海都日召宗親宴飲、将伺其隙謀害之。鉄連乃厲声斥之曰『且食、勿語。望語言脱口、相摭為罪耶』。良久、海都曰『直哉』。酒半、鉄連求衣為歓、海都嘉其雄辯、将解与之、其妃止之、以皮服二襲付之。因語其属曰『為使者當如是矣』。厚贈以行。既至抜都蒙哥鉄木王所、具告以故、王曰「祖宗有訓、叛者人得誅之。如通好不従、挙師以行天罰、我即外応掩襲、剿絶不難矣』」
  4. ^ 従来、「タラス・クリルタイでジョチ家・チャガタイ家・オゴデイ家の総意としてカイドゥがカアンに推戴された」という説の下、「モンケ・テムルはカイドゥ派の人間であった」と説明されることが多かった。しかし、「タラス・クリルタイにおけるカイドゥの推戴」は実際には史料上の裏付けがない後世の創作であることが明らかになっており、モンケ・テムルについても実際はこの『元史』巻134列伝21鉄連伝に見られるような親クビライ的な立場にあったのではないかと近年では考えられている(赤坂2008,158-159頁)
  5. ^ 『元史』巻134列伝21鉄連伝,「鉄連還、悉以事聞、因言於帝曰『海都兵繁而鋭、不宜速戦、来則堅塁待之、去則勿追、自守既固、則無虞矣』。帝深然之。敕所受海都皮服、全飾以金、凡朝会、宜服以表示焉。其賞賜不可勝計」
  6. ^ 『元史』巻134列伝21鉄連伝,「後屡使抜都王所、道遇海都游兵、副者前行、失対遇害、鉄連後至、曰『我為天子使、可以非礼犯之耶』。游兵語屈、乃曰『前者偽使、此真使也』。釈之、遂独得還。帝嘗謂侍臣曰『有鉄連、則朕之宗族将不失和矣』。海都覘伺抜都王為備已厳、意乃帖然」
  7. ^ この時、テレンの任命権がジョチ・ウルス当主からクビライの手に移っているのは、至元13年(1276年)に「シリギの乱」が勃発した際にジョチ・ウルスが叛乱軍に協力的な態度を取り、ジョチ・ウルスと大元ウルスが断交状態に陥ったためと考えられている(村岡2002,161-162頁)
  8. ^ 『元史』巻134列伝21鉄連伝,「鉄連始終凡四往返、歴十四年、帝謂鉄連曰『在朝官之要重者、惟汝所択』。対曰「臣志在王室、其事未辦、不敢奉命。今臣母在絳州、老且病、得侍朝夕、幸也』。詔従其請、授絳州達魯花赤」
  9. ^ 『元史』巻134列伝21鉄連伝,「至元十五年、平陽李二謀乱、鉄連捕問、尽得其状。中書奏進其秩、帝曰『鉄連豈惟能辦此耶』。加宣武将軍。至元十八年、病卒於官、年六十四。子答剌帯嗣、官信武将軍・同知大同路総管府事」

参考文献[編集]

  • 元史』巻134列伝21
  • 新元史』巻154列伝51
  • 蒙兀児史記』巻116列伝198
  • 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』風間書房、2005年
  • 村岡倫「モンゴル時代の右翼ウルスと山西地方」『碑刻等史料の総合的分析によるモンゴル帝国・元朝の政治・経済システムの基礎的研究』、2002年