チュルチャカイ

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チュルチャカイ(モンゴル語: Čulčaqai,? - ,?)とは、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、サルジウト部の出身。『元史』などの漢文史料における漢字表記は純只海(chúnzhǐhǎi)。

概要[編集]

チュルチャカイは幼い頃からチンギス・カンケシク(親衛隊)に仕え、中央アジア遠征(モンゴルのホラズム・シャー朝征服)でも功績を挙げた。1233年(癸巳)、チュルチャカイは第2代皇帝オゴデイの命によって益都行省軍民ダルガチに任じられ、金朝との戦いでは徐州の攻略に参加し金の将軍国用安を捕らえる功績を挙げた。1237年(丁酉)、益都が皇太子の分地となったためにチュルチャカイは京兆行省都ダルガチに転任となったが、懐州で疫病が広まりモンゴル兵にも被害が出始めたため、急遽チュルチャカイは懐州に駐屯してこれに対処することになった。

1239年(己亥)、同僚の王栄がモンゴルへの反逆を企み、チュルチャカイは王栄潜に捕らえられて両足の腱を断たれ、仏祠の中に繋がれた。これを聞いたチュルチャカイの妻喜礼伯倫は配下の者を率いて王栄の家を攻め、自力でチュルチャカイを救出した。救出されたチュルチャカイは援軍を要請して王栄を討伐し、遂に王栄を殺害した。朝廷は王栄の財産はチュルチャカイのものと定め、王栄に従った民1万人余りを処刑しようとしたが、チュルチャカイは「私が憎むのは王栄一人であって、民に罪はない。もし城民を皆殺しにした後、空になった城を守ってなんになろうか?」と語ってこれを留めた。また、王栄の妻も許して一介の民とした上、王栄の住宅を接収することもなかったため、現地の民からはその無欲さから徳のある人物であると称賛された。これを聞いたオゴデイはチュルチャカイの功績を称賛し、首都カラコルムの一角に邸宅を設けたが、ほどなくしてチュルチャカイは病死した。死後、その地位は息子の昂阿剌が継承した。

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脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻123列伝10純只海伝,「純只海、散朮台氏。弱冠宿衛太祖帳下、従征西域諸国有功。歳癸巳、太宗命佩金虎符、充益都行省軍民達魯花赤、従大帥太出破徐州、擒金帥国用安。丁酉、以益都為皇太子分土、遷京兆行省都達魯花赤。至懐、直大疫、士卒困憊、有旨以本部兵就鎮懐孟。未幾、代察罕総軍河南、尋復懐孟。己亥、同僚王栄潜畜異志、欲殺純只海、伏甲縶之、断其両足跟、以帛緘純只海口、置仏祠中。純只海妻喜礼伯倫聞之、率其衆攻栄家、奪出之。純只海裹瘡従二子馳旁郡、請兵討栄、殺之。朝廷遣使以栄妻孥貲産賜純只海家、且尽駆懐民万餘口郭外、将戮之。純只海力争曰『為悪者止栄一人耳、其民何罪。若果尽誅、徒守空城何為。荀朝廷罪使者以不殺、吾請以身当之』。使者還奏、帝是其言、民頼不死。純只海給栄妻孥券、放為民、遂以其宅為官廨、秋毫無所取。郡人徳之。既入覲、太宗以純只海先朝旧臣、功績昭著、賜第一区於和林、尋以疾卒。勅葬山陵之側。皇慶初、贈推忠宣力功臣・金紫光禄大夫・上柱国・温国公、諡忠襄。仍勅詞臣劉敏中制文樹碑於懐、以旌其功云。子昂阿剌嗣」

参考文献[編集]

  • Geoffrey Frank Humble, Biographical Rhetorics: Narrative and Power in Yuanshi biography, Department of History College of Arts and Law University of Birmingham, 2017.
  • 元史』巻123列伝10