センウ

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センウモンゴル語: Seng'ü,? - 1284年)とは、大元ウルスに仕えたジャライル部出身の将軍・政治家。モンゴル帝国の創設者チンギス・カンに仕えて左翼万人隊長となったムカリ国王の子孫であり、主に南宋の平定・統治に従事したことで知られる。『元史』などの漢文史料では相威(xiāngwēi)と表記されるが、これはモンゴル語名「セングン/センウン(Senggüm/Senü'üm)」が転訛したものと見られる。

概要[編集]

生い立ち[編集]

センウはモンゴル帝国建国の功臣たる国王ムカリの4世孫に当たり、第5代国王(ムカリ家当主)スグンチャクの息子として生まれた[1]。ムカリ家は「五投下」と呼ばれる軍団の領袖としてモンゴル帝国内でも極めて高い地位を得ていたが、第4代皇帝モンケの治世にはあまり重用されず、不遇の時代にあった。そんな中モンケが急死すると、モンケの弟クビライの側近であるバアトル(スグンチャクの弟に当たる)がクビライの即位に大きく貢献し、ムカリ国王家は再び厚遇されるようになった[2]

南宋遠征軍の指揮官として[編集]

このような流れの中で、バアトルの甥センウもクビライに抜擢され、至元11年(1274年)には父スグンチャクがかつて率いていた「五投下」の軍団とともに南宋平定に加わるよう命じられた。センウ率いる五投下軍団はアタカイ劉整らの率いる淮西軍団と行動をともにし、長江沿いに東進し安豊廬州などを攻略した[3]。潤州で一度再集結した南宋遠征軍は南宋の首都臨安攻略のため全軍をモンゴル軍伝統の左翼・右翼・中央3軍体制に再編成し、センウは董文炳とともに左翼軍を率いることになった。3軍に分かれて進軍を始めたモンゴル軍に対して、江陰・華亭・澉浦・上海といった諸城は戦わずして投降し、首都臨安もほとんど戦闘が行われることなくモンゴル軍によって占領された。臨安の攻略後、センウは揚州を包囲していたアジュ軍の授護に向かって姜才率いる2万の兵を撃退する功績を挙げ、揚州の陥落後は他の諸将とともにクビライの下に凱旋した[4][5]。 しかし、南宋平定が成功裏に終わろうとしていたその最中、北方モンゴリアでは「シリギの乱」という大事件が勃発し、センウも含む南宋遠征軍の主だった諸将は反乱鎮圧のため北方・西方に派遣されることになった[6]。センウはこの時「征西都元帥」に任じられ、総帥汪惟正率いるオングト軍とともに「シリギの乱」に呼応して東進するカイドゥ軍との戦いに派遣されたが、この間の動向についてはあまり記録が残っていない[7]

御史大夫時代[編集]

至元14年(1277年)に入ると、「シリギの乱」に派遣された南宋遠征軍の指揮官の中でセンウのみが江南に呼び戻され、新設された江南行御史台(江南行台)の長官(御史大夫)に任じられた[8]。この時、センウを御史大夫に任じたクビライのジャルリク(聖旨)が『南台備要』に所収されており、そこには以下のように記されている。

至元十四年、つつしんで率じた聖旨にて、……まさに公務を管轄すべき様々な種類の人々に諭し、遍く諭した聖旨。天はかたじけなくも南宋を得さしめたぞ。[任務を]任せて行かせた大小の官吏は、仕事をするその時に、人民たちから決まりにない差発をとりたて、非道に騒ぎ乱し、およそ公務があれば情実をうかがっている。今、大小の公務に任命した官人(ノヤン)たちに対して、誰であれ、いずれの場合であろうとも現地調査を行え。センウを行御史台の頭として任命するぞ。これを欽め。 — 「行御史台を設立して、センウに命じて御史大夫とする制」『南台備要』[9]

御史台は本来官署の監察機関に過ぎないが、この時の「江南行台」は江南全体の統括や反乱の鎮圧といった軍事行動といった役目も担っていた。 そのため、南宋遠征軍中で最も出自が良く、五投下という強力な軍団を有するセンウのみが特に呼び戻され、御史大夫に任じられたのだと考えられている[10]

至元16年(1279年)に一時クビライの下を訪れた際には、弾劾を受けていた尚書省アフマドの審問を命じられている。翌至元17年(1280年)には南宋遠征軍の最高指揮官の一人、エリク・カヤが南宋平定寺に得た投降民3万名を不当に私奴隷としていた事実を追求し、彼らを民にもどすよう命じた[11]。エリク・カヤが南末平定時に得た不正な財産の追求は至元19年(1282年)にも行われ、エリク・カヤの死後その息子の世代にも続けられた[12]。至元18年(1281年)には日本遠征失敗(弘安の役)の報告がクビライの下にもたらされ、激怒したクビライは再度の日本遠征をアタカイに命じた。 周囲の者はクビライの怒りを恐れてこれに反対しなかったが、センウのみは「いずれ日本は伐たなければならないにしろ、今はそれを急ぐべきではありません。十分に準備を整えた上、一挙に征伐を行うべきです」 とクビライの短慮を諫め、日本遠征を延期させたという[13]

至元20年(1283年)には病のため中央に戻り、そこでモンゴル語に訳した『資治通鑑』をクビライに進呈した。これを受けてクビライはセンウを新たに江淮行省左丞相に任じたが、翌至元21年(1284年)4月に44歳にして亡くなった。これを聞いたクビライはセンウの死を深く惜しんだという[14]。ジャライル部センウ家はウリヤンハン部アジュ家とともに代々江南統治首脳を輩出する家系として大元ウルスを通じて繁栄した[15]

ジャライル部スグンチャク系国王ムカリ家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻119列伝6相威伝,「相威、国王速渾察之子也。性弘毅重厚、不飲酒、寡言笑。喜延士大夫、聴読経史、諭古今治乱、至直臣尽忠・良将制勝、必為之撃節称善。以故臨大事、決大議、言必中節」
  2. ^ 堤1996,78頁
  3. ^ 『元史』にはこの時和州も攻略したとされるが、和州の攻略は臨安陥落後のことであるため、史実とは異なる(堤1996,79頁)
  4. ^ 『元史』巻119列伝6相威伝,「至元十一年、世祖命相威総速渾察元統弘吉剌等五投下兵従伐宋。由正陽取安豊、略廬、克和、攻司空山、平野人原。道安慶、渡江東下、会丞相伯顔兵於潤州、分三道並進、相威率左軍、参政董文炳為副、部署将校、申明約束。江陰・華亭・澉浦・上海悉望風款附、吏民按堵如故。進屯塩官、伯顔已駐師臨安城下、得宋幼主降表。相威乃移兵瓜洲、与阿朮兵合。臨揚州、都統姜才以兵二万攻揚子橋、率諸将撃敗之」
  5. ^ 堤1996,80頁
  6. ^ 『元史』巻119列伝6相威伝,「十三年夏、駅召相威。秋、入覲、大饗、賚功、授金虎符・征西都元帥、仍賜弓矢甲鞍・文錦表裏四・鈔万貫、従者賞賜有差。時親王海都叛、命領汪総帥兵以鎮西土」
  7. ^ 堤1996,82-83頁
  8. ^ 『元史』巻119列伝6相威伝,「十四年、召拜江南諸道行台御史大夫。乃上奏曰『陛下以臣為耳目、臣以監察御史・按察司為耳目。倘非其人、是人之耳目先自閉塞、下情何由上達』。帝嘉之、命御史台清其選。毎除目至、必集幕僚御史議其可否、不協公論者即劾去之。継陳便民一十五事、其略曰併行省、削冗官、鈐鎮戍、拘官船、業流民、録故官、贓饋遺、淮浙塩運司直隷行省、行大司農営田司併入宣慰司、理訟勿分南北、公田召佃仍減其租、革宋公吏勿容作弊。帝皆納焉。浙東盗起、浙西宣慰使昔里伯縦兵肆掠、俘及平民、乃遣御史商琥拠銭唐津渡閲治之、得釈者以数千計。昔里伯遁還都、奏執還揚州治其罪」
  9. ^ 提1996,86頁
  10. ^ 提1996,89-90頁
  11. ^ 『元史』巻119列伝6相威伝,「十六年、入覲、会左丞崔斌等言平章阿合馬不法事、有旨命相威及知枢密院博羅自開平馳駅大都共鞫之。阿合馬称疾不出、博羅欲回、相威厲声色曰『奉旨按問、敢回奏耶!』令輿疾赴対、首責数事。既引伏、有旨釈免、仍諭相威曰『朕知卿不惜顔面』。復命還南行台。十七年、有旨命相威検核阿里海牙・忽都帖木児等所俘三万二千餘口、並放為民」
  12. ^ 『元史』巻119列伝6相威伝,「十九年、又奏阿里海牙占降民一千八百戸為奴、阿里海牙以為征討所得、有旨『果降民也、還之有司、若征討所得、令御史台籍其数以聞、量賜有功者』。阿里海牙又自陳其功比伯顔、当賜養老戸、御史滕魯瞻劾之、阿里海牙自辯、有旨遣使赴行台逮問。相威曰『為臣敢爾欺誑邪、滕御史何罪』。即馳奏、使者竟帰」
  13. ^ 『元史』巻119列伝6相威伝,「十八年、右丞范文虎・参政李庭以兵十万航海征倭。七晝夜至竹島、与遼陽省臣兵合。欲先攻太宰府、遅疑不発。八月朔、颶風大作、士卒十喪六七。帝震怒、復命行省左丞相阿塔海征之。一時無敢諫者。相威遣使入奏曰『倭不奉職貢、可伐而不可恕、可緩而不可急。向者師行迫期、戦船不堅、前車已覆、後当改轍。今為之計、預修戦艦、訓練士卒、耀兵揚武、使彼聞之、深自備禦。遲以歳月、俟其疲怠、出其不意、乗風疾往、一挙而下、万全之策也』。帝意始釈、遂罷其役。又陳皇太子既令中書、宜領撫軍監国之任、選正人端士、立詹事・賓客・諭徳・賛善、衛翼左右、所以樹国本也。帝深然之」
  14. ^ 『元史』巻119列伝6相威伝,「二十年、以疾請入覲、進訳語『資治通鑑』、帝即以賜東宮経筵講読。拜江淮行省左丞相。二十一年、啓行。四月、卒於蠡州、年四十四。訃聞、帝悼惜不已。子阿老瓦丁、南行台御史大夫;孫脱歓、集賢大学士」
  15. ^ 提2000,201-202頁

参考文献[編集]

  • 堤一昭「元朝江南行台の成立」『東洋史研究』第54巻4号、1996年
  • 堤一昭「大元ウルスの江南駐屯軍」『大阪外国語大学論集』第19号、1998年
  • 堤一昭「大元ウルス江南統治首脳の二家系」『大阪外国語大学論集』第22号、2000年
  • 原田理恵「元朝の木華黎一族」(所収:『山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相 下巻』(汲古書院、2007年) ISBN 978-4-7629-2814-7
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年