スゲ (モンゴル部)

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スゲ(モンゴル語: Süge,? - ?)とは、モンゴル帝国及び大元ウルスに仕えた将軍の一人。『元史』などの漢文史料では速哥(sùgē)と記される。

概要[編集]

スゲの一族はモンゴル部の出身で、父のクラクルは国王ムカリの磨下にあって金朝との戦いに従事した人物であった[1]。スゲもまた若い頃から強壮なことで知られ、1254年(甲寅)にはモンケの命によってテケ・コルチの指揮する南宋領蜀方面侵攻に従軍することとなった。翌1255年(乙卯)には劉七哥とアリー率いる部隊が巴州で南宋軍と戦って劣勢に陥ったが、スゲの奮戦によって劉七哥は生還することができ、この功績によって白金50両を与えられた。その後は四川方面軍の総司令官都元帥ネウリンの指揮下に入り、三曹山の戦いでは僅か百の兵で数で上回る南宋軍を打ち破る功績を挙げた。1259年にはまた涪州の戦いで、不利に陥ったコニチを救出する功績を挙げている[2]

1259年にモンケが急死すると、帝位を巡って弟のクビライアリク・ブケとの間で帝位継承戦争が起こった。時期は不明であるがスゲは上官のネウリンとともにクビライ派につき、内戦の終結後もクビライより引き続き四川方面の侵攻を任されることになった。1267年(至元4年)からはネウリンの息子イェスデルが四川方面軍の最高指揮官となり、同年には瀘州を攻略した。翌1268年(至元5年)には徳州ダルガチに任じられ、陝西五路四川行省左右司員外郎となった。1270年(至元7年)にはイェスデルの指揮下で馬湖江の戦いで南末軍を破り、1272年(至元9年)にはガインドゥ/建都の反乱をアウルクチイェスデルとともに鎮圧した。ガインドゥの鎮圧戦では千人隊を率いて先鋒を務め、黎州火尾寨等を攻略し、東山の戦いでは敵の酋長を打ち取る功績を挙げている。翌1273年(至元10年)には七盤山の戦いで南宋軍を破り、その翌年からは京兆新軍を率いて水軍の調練を始めた[3]

1275年(至元12 年)、南宋の将軍昝万寿を麻平で打ち破った。その後、イェスデルよりスゲは城攻めに派遣されたが、攻城戦の最中大地震が起こった。動播した南宋軍は船で逃れようとしたが、スゲは好機とみてこれを追撃して大勝し、南宋兵の溺死者は数えきれないほどであったという。この勝利で紫雲・瀘州・叙州などの諸城が下り、モンゴル軍は遂に四川方面の要衝重慶を包囲した。1276年(至元13年)、全軍を5軍に分けて水陸両面からモンゴル軍は重慶に総攻撃をかけたものの、重慶の守りは強固でモンゴル軍は苦戦を強いられた。しかし、スゲの軍団のみは敵船300を歯獲し、130名を捕虜とする快進撃を見せた。更に、事前に投降の意を書簡で示していた涪州の守将がスゲの進撃を受けて遂に投降し、これによって遂にスゲの軍団は重慶に入城した。重慶守臣の張万はこれを撃退すべく兵を繰り出したが、スゲは一昼夜戦い続けてこれを破り、遂に重慶を陥落させた。1277年(至元14年)には瀘州が反乱を起こし、一度陥落させた重慶も再び包囲を受け、守将の趙安は開城して逃れてしまった。スゲはこれら反乱軍を追撃して破り、これらの功績により重慶夔府等路宣撫・招討両司軍民に任じられた[4]

1279年(至元16年)には更に四川南道宣慰使に任じられ、成都水軍万戸を統括した。1282年(至元19年)には亦奚不薛蛮の反乱を鎮圧し、1287年(至元24年)には河東陝西等路万戸府ダルガチに移った。1292年(至元29年)には河東陝西等処万戸府ダルガチ、1294年(至元31年)には僉書四川行枢密院事をそれぞれ歴任し、新帝オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の即位まで健在であったが、1295年(元貞元年)に職を辞してその数年後亡くなった。 死後、その地位は息子の寿不赤が継いで河東陝西等処万戸府ダルガチとなった[5][6]

モンゴル帝国の四川駐屯軍[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻131列伝18速哥伝,「速哥、蒙古人。父忽魯忽児、国王木華黎麾下卒也。後更隷塔海・帖哥軍。以善馳馬、有口辯、慎重不泄、令佩銀符、常居軍中。奏白機務、往返未嘗失期。太宗以為才、賜名動哥居。詔『動哥居奏事、朝至朝入奏、夕至夕入奏』。嘗出金盤龍袍及宮女賜之。憲宗時、以疾卒」
  2. ^ 『元史』巻131列伝18速哥伝,「速哥亦以壮勇居軍中、歳甲寅、憲宗命従都元帥帖哥火魯赤等入蜀。乙卯、万戸劉七哥・阿剌魯阿力与宋兵戦巴州、失利、陥敵中。速哥馳入其軍、奪劉七哥等以帰。以功賜白金五十両・馬二匹・紫羅圏甲一注。又従都元帥紐璘敗宋将劉整、破雲頂山城。紐璘受詔会涪州、至馬湖江、速哥以革為舟、夜渡江、至大獲山行在所、陳道梗失期、帝慰遣之。未幾、復自涪州入奏事、遇宋軍於三曹山、速哥衆僅百餘、奮兵疾戦、敗之、奪其器械旗鼓以帰。己未、宋兵攻涪州浮橋、部将火尼赤戦陥、速哥破囲出之。又以白事諸王穆哥所、復敗宋軍於三曹山、還至石羊、与劉整遇、復撃敗之」
  3. ^ 『元史』巻131列伝18速哥伝,「世祖即位、賜白金・弓刀・鞍勒。中統二年、賜銀符、命隷紐璘軍。至元二年、四川行省遣速哥招収降民、得三千餘人。三年、従行院帖赤戦九頂山。四年、行省也速帯児署為本軍総管、従征瀘州、取瀘川。五年、立徳州、以速哥為達魯花赤、擢陝西五路四川行省左右司員外郎。従也速帯児入朝、賞賚加厚。七年、従也速帯児敗宋軍於馬湖江。用平章政事賽典赤薦、遷行尚書省員外郎。九年、建都蛮叛、詔諸王奥魯赤及也速帯児討之。速哥将千人為先鋒、破黎州火尾寨、攻連雲関、克之。軍至建都、戦於東山、斬其酋布庫。復与元帥八児禿迎合剌軍於不魯思河、所過城邑皆下。十年、討碉楼諸蛮、襲破連環城、還敗宋軍於七盤山、辟新軍万戸。十一年、賜虎符、真授管軍万戸、領成都高哇哥等六翼及京兆新軍、教習水戦。也速帯児進囲嘉定、速哥率舟師会平康城、修築懐遠等寨、守其要害」
  4. ^ 『元史』巻131列伝18速哥伝,「十二年、遣兵敗宋将昝万寿於麻平。既而行枢密副使忽敦等軍至、与也速帯児会於紅崖、遣速哥守龍壩。城中大震、宋将陳都統・鮮于団練率舟師遁。速哥追撃、溺死者不可勝計、遂与中使沈答罕徇下流諸城、紫雲・瀘・叙皆降。進囲重慶、速哥以所部兵鎮白水・馬湖江口。十三年、帝遣脱朮・教化的持詔諭其守臣使降、不聴、乃分兵為五道、水陸並進攻之。衆軍不利、唯速哥獲戦艦三百艘、俘其衆百三十人。涪州守将遣書納降、速哥率千人往察其情偽。速哥至涪州、果降、遂入其城。重慶守臣張万率衆来襲、速哥一日夜出兵凡与十八戦、斬首三百餘級、万敗走。未幾、万復以積兵三千人来攻、又戦敗之。十四年、行院辟為鎮守万戸・嘉定総管府達魯花赤。時瀘州復叛、速哥従大軍討平之。重慶受囲久、其守将趙安開門出降、制置使張玨遁、速哥追破之、虜百餘人及其舟二十餘艘。以功授成都水軍万戸、尋改重慶夔府等路宣撫・招討両司軍民達魯花赤」
  5. ^ 『元史』巻131列伝18速哥伝,「十六年、除四川南道宣慰使、依前成都水軍万戸、鎮重慶・夔・施・黔・忠・万・雲・涪・瀘等州。十九年、亦奚不薛蛮叛、置順元等路軍民宣慰司、以速哥為宣慰使、経理諸蛮。二十四年、遷河東陝西等路万戸府達魯花赤、播州宣撫賽因不花等赴闕請留之。降八番金竹等百餘寨、得戸三万四千、悉以其地為郡県、置順元路・金竹府・貴州以統之。東連九渓十八峒、南至交趾、西至雲南、咸受節制。二十九年、入朝、加都元帥、改河東陝西等処万戸府達魯花赤。三十一年、僉書四川行枢密院事、詔開土番道。土番叛、以兵囲茂州、速哥率師敗之。元貞元年、行院罷、速哥家居数歳卒。子寿不赤、襲河東陝西等処万戸府達魯花赤」
  6. ^ 牛根2010,78-79頁

参考文献[編集]

  • 牛根靖裕「モンゴル統治下の四川における駐屯軍」『立命館文学』第619号、2010年
  • 元史』巻131列伝18