スゲ (ケレイト部)

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スゲ(モンゴル語: Süge,? - ?)とは、モンゴル帝国に仕えた人物の一人で、ケレイト部の出身。『元史』では速哥(sùgē)と表記される。

概要[編集]

『元史』巻124速哥伝によると、スゲはケレイト部の出身で、「李唐の外族」であったという。「李唐の外族」の指す意味については諸説あるが、『新五代史』に「後唐の始祖李国昌・李克用父子はかつて達靼に亡命したことがある」[1]、『旧五代史』に「李克用が朱全忠に『陰山部落は私の懿親であり、回紇の軍隊は重ねて[私の]外戚に従っている』と語った」[2]と記されていることなどから、一時的に「九姓タタル国(=後のケレイト部)」に亡命した李克用と現地のタタル人女性との間に生まれた子供の子孫を意味するのではないかと考えられている[3]。スゲの父カイドゥ(懐都)はチンギス・カンに仕えてともにバルジュナ湖の濁水を飲んだ、「バルジュナト」の一人であった。

スゲは質実剛健、沈着冷静なことで知られており、その評判を聞いた第2代皇帝オゴデイはスゲに金朝に使者として訪れ、その情勢を見極めよるよう命じた。その際、オゴデイが「もし汝が生きて還らなかった場合、汝の子孫が富を心配せずとも生活できるよう配慮しよう」と述べた所、スゲは「臣が死ぬ時は、職務に殉じる時のみと心に決めています。陛下の命を奉じて職務を行う以上、陛下が臣のことを慮る必要はありません」と答えたため、オゴデイはその返答を大いに気に入り自らが愛用していた馬を与えたという。金朝皇帝の下を訪れたスゲは堂々とオゴデイの口上を述べ、無事オゴデイの下に帰還した[4]

1235年、オゴデイが自らスゲに「西域(中央アジア)と中原(東アジア)、[どちらで働くか]汝にのみは選ばせよう」と語ったところ、スゲは中原で働くことを希望したため、山西の大ダルガチに任ぜられたという。命を受けて山西に向かう途上、スゲは6人のサルタウルが刑罰を受けるために護送されるのに遭い、事情を聞いたスゲは刑を緩めるよう命じた。その後スゲはオゴデイにこの6名のサルタウルは西域では著名な者達であること、いたずらに小罪で彼等を罰していては遠方から訪れる者達を萎縮させてしまうであろうこと、今彼等を殺しても無益なだけだが訓告によって自らの罪を悔いさせるに止めれば後に役に立つ人材になるであろう旨を上奏し、オゴデイはこの提案を受け容れた。この逸話のようにスゲは常に寛大な態度をとり、慈愛をもって人々と接していたという。その後、62歳にして亡くなった[5]

スゲの子供は6人おり、それぞれ長罕、玉呂忽都、撒合里都、クラン(忽蘭)、クトル・ブカ(忽都児不花)、ブカ(不花)といった。この内クランが父の後を継ぎ、当時横行していた盗賊を討伐したことなどで知られる[6]

脚注[編集]

  1. ^ 『新五代史』巻74四夷附録第三,「達靼、靺鞨之遺種……其後李国昌・克用父子為赫連鐸等所敗、嘗亡入達靼」
  2. ^ 『旧五代史』巻36李襲吉伝,「……矧復陰山部落、是僕懿親、回紇師徒、累従外舎」
  3. ^ 白2015,16-17頁
  4. ^ 『元史』巻124列伝11速哥伝,「速哥、蒙古怯烈氏、世伝李唐外族。父懐都、事太祖、嘗従飲班朮尼河水。速哥為人外若質直、而内実沈勇有謀、雅為太宗所知。命使金、因俾覘其虚実、語之曰『即不還、子孫無憂不富貴也』。速哥頓首曰『臣死、職耳。奉陛下威命以行、可無慮也』。帝悦、賜所常御馬。至河、金人閉之舟中、七日始登南岸、又三旬乃達汴。及見金主、曰『天子念爾土地日狭、民力日疲、故遣我致命、爾能共修歳幣、通好不絶、則転禍為福矣』。謁者令下拜、速哥曰『我大国使、為爾屈乎』。金主壮之、取金巵飲之酒曰『帰語汝主、必欲加兵、敢率精鋭以相周旋、歳幣非所聞也』。速哥飲畢、即懐金巵以出。速哥雖佯為不智、而黙識其地理厄塞・城郭人民之強弱。既復命、備以虚実告、且以所懐金巵献。帝喜曰『我得金於汝手中矣』。復以賜之。始下令征兵南伐。兵至河北岸、方舟欲渡、金軍陳於河南、帝令儀衛導速哥居中行、親率偏師乗陣西策馬沙河。会睿宗軍亦由襄・鄧至、両軍夾攻之。及金亡、詔賜金護駕士五人、曰「此以旌汝為使之不辱也』。昔使過崞州、崞人盜殺其良馬、至是、兼以崞民賜之」
  5. ^ 『元史』巻124列伝11速哥伝,「速歳乙未、帝従容謂速哥曰『我将官汝、西域・中原、惟汝択之』。速哥再拜曰『幸甚。臣意中原為便』。帝曰『西山之境、八達以北、汝其主之。汝於城中構大楼、居其上、使人皆仰望汝、汝俯而諭之、顧不偉乎』。乃以為山西大達魯花赤。受命方出、有回回六人訟事不実、将抵罪、遇諸途、急止監者曰『姑緩其刑、当入奏』。復見帝曰『此六人者、名著西域、徒以小罪尽誅之、恐非所以懐遠人也。願以賜臣、臣得困辱之、使自悔悟遷善、為他日用、殺之無益也』。帝意解、召六人謂之曰『生汝者速哥也、其竭力事之』。至雲中、皆釈之。後有至大官者。其寬大愛人多類此。卒年六十二。贈推忠翊運同徳功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、追封宣寧王、諡忠襄」
  6. ^ 『元史』巻124列伝11速哥伝,「速子六人曰長罕、曰玉呂忽都、曰撒合里都、曰忽蘭、曰忽都児不花、曰不花。長罕・玉呂忽都・撒合里都、皆従兀魯赤太子出征、以戦功顕。忽蘭之母以後戚故、得襲職。鉏強植弱、均役平刑、闔郡賴以安輯。乙未之抄戸籍也、前賜崞人已入官籍、更賜山西戸三百。西方多盜、郡県捕不得、則法當計所失物直倍償、郡県苦之。有甄軍判者、率群盜往来阜平・曲陽間、殺人渾源界而奪之財。県以失捕當償、忽蘭曰『此大盜也、県豈能制哉』。即遣千人捕甄殺之、剿捕其餘党、其害乃除。忽蘭性純篤、然酷好佛、嘗施千金修龍宮寺、建金輪大会、供僧万人。卒年四十二。贈太保・金紫光禄大夫・上柱国、追封雲国公、諡康忠。子天徳於思、穎悟過人、世祖聞其賢、令襲父爵、養母完顔氏以孝聞。自中山北来、適有辺釁、天徳於思督造兵甲、撫循其民、無有寧息、形容尽瘁。帝聞而嘉之、賜馴豹・名鷹、使得縦猟禁地、当時眷顧最号優渥。卒年三十九。贈太傅・儀同三司・上柱国、追封雲国公、諡顕毅。子孫世多顕貴云」

参考文献[編集]

  • 白玉冬「沙陀後唐・九姓タタル関係考」『東洋学報』97巻、2015年
  • 元史』巻124速哥伝
  • 新元史』巻132列伝29
  • 蒙兀児史記』巻43列伝25