コンスタンチン・ロマノヴィチ

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コンスタンチン・ロマノヴィチ
Константин Романович
プロンスク公
リャザン公
コンスタンチン・ロマノヴィチの処刑
在位 プロンスク公:1294年 - 1299年
リャザン公:1299年 - 1301年

死去 1306年
子女 ヴァシリー
家名 リューリク家
父親 リャザン大公ロマン(ru)
母親 アナスタシア
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コンスタンチン・ロマノヴィチロシア語: Константин Романович、? - 1306年)は、リャザン大公ロマン(ru)の子である。プロンスク公:1294年 - 1299年、リャザン公:1299年 - 1301年。

1300年もしくは1301年に、モスクワ公ダニールとの戦いに破れ、捕虜としてモスクワに連行された。1306年、ダニールのあとを継いでいたユーリーによって処刑された。コンスタンチンの死後、リャザン公国領であったコロムナモスクワ大公国に接収された。

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出典[編集]

  1. ^ Соловьёв С. М. «История России с древнейших времён»
  2. ^ a b Л.Войтович КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ
  3. ^ Карамзин Н. М., «История государства Российского»

参考文献[編集]

先代
ヤロスラフ・ロマノヴィチ
リャザン公
1299年 - 1301年
次代
ヴァシリー・コンスタンチノヴィチ