エレーヌ・ド・ブルゴーニュ

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エレーヌ・ド・ブルゴーニュ
Hélène de Bourgogne

出生 1080年ごろ
ブルゴーニュ公領
死去 1141年2月28日
ヌフシャテル=アン=ソスノワ、ペルセーニュ修道院英語版
配偶者 トゥールーズ伯ベルトラン
  ポンテュー伯ギヨーム3世
子女 本文参照
家名 ブルゴーニュ家
父親 ブルゴーニュ公ウード1世
母親 シビーユ・ド・ブルゴーニュ
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エレーヌ・ド・ブルゴーニュフランス語:Hélène de Bourgogne, 1080年ごろ - 1141年2月28日)は、ブルゴーニュ公ウード1世とシビーユ・ド・ブルゴーニュの娘[1]

生涯[編集]

1095年6月にベルトラン・ド・トゥールーズと結婚し[2]、1男が生まれた。

1105年にベルトランはトゥールーズ伯位を継承し、1108年には父が持っていたトリポリ伯の権利を主張するためウトラメールに向けて旅立った。エレーヌはこの遠征に従い、1109年にベルトランはトリポリを手に入れた。その後まもなくして、従兄弟ギヨーム・ジュルダンが怪我がもとで死去し、これによりベルトランのトリポリに対する主張は議論の余地がなくなった。

ベルトランは1112年に死去し、息子ポンスがトリポリ伯位を継承した。エレーヌはフランスに戻り、1115年にポンテュー伯ギヨーム3世と再婚した[2]。2人の間には11子が生まれた。

エレーヌは1141年2月28日にヌフシャテル=アン=ソスノワのペルセーニュ修道院英語版で死去した。

注釈[編集]

  1. ^ オーデリック・ヴィタリス英語版によるとエレーヌはポンスの母であるが、マームズベリのウィリアムはこれに異議を唱えている[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c Lewis 2017, p. 73.
  2. ^ a b Bouchard 1987, p. 256.

参考文献[編集]

  • Bouchard, Constance Brittain (1987). Sword, Miter, and Cloister: Nobility and the Church in Burgundy, 980–1198. Cornell University Press 
  • Lewis, Kevin James (2017). The Counts of Tripoli and Lebanon in the Twelfth Century: Sons of Saint-Gilles. Routledge