高津内親王

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高津内親王(こうづ/たかつないしんのう、生年不詳[1]承和8年4月17日841年5月11日)没)は桓武天皇の第12皇女、母は従五位下坂上又子刈田麻呂の女)。

延暦20年(801年)11月9日、加笄の儀(女子の成人式)を行った。異母兄にあたる神野親王と結婚し、親王が嵯峨天皇として即位するにともない、大同4年(809年)6月13日、となり三品に叙せられた。業良親王業子内親王を生んだが、業良親王は精神に異常があったといわれ(『三代実録』薨伝)、それが原因かどうか、薨去するまで無品のままであった。高津内親王もほどなく妃を廃せられたが、その原因は薨伝に「良有以也(まことにゆえあるなり)」とあるだけで一切が不明である。業良親王の精神問題と絡んで、背後に何らかの陰謀があったと思われ[2]、内親王が漢文を下敷きにして詠んだ歌「直き木にまがれる枝もあるものを毛を吹き疵を言ふがわりなさ」(『後撰和歌集』)がそれを仄めかしつつ内親王の憤慨を伝えている[3]

脚注

  1. ^ 母の坂上又子が没した延暦9年(790年)7月21日以前の誕生。
  2. ^ 彼女の廃妃と業良親王の皇位継承からの排除で利益を得た、夫人・橘嘉智子および彼女を支持する勢力の暗躍を想定する向きもある。
  3. ^ ほかに『古今和歌集』にも、我が身の不幸な境遇を嘆いた歌である「木にもあらず草にもあらぬ竹のよのはしに我が身はなりぬべらなり」が、作者名は「よみ人知らず」とありながら、ある所伝として「たかつのみこの歌なり」という注記がついている。