追儺

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『吉田神社追儺』 - 都年中行事画帖(1928年)
鬼面(大宮八幡宮
鬼追式(三木市の蓮花寺)
方相氏(平安神宮)

追儺(ついな)とは、大晦日旧暦12月30日)の宮中年中行事であり、平安時代の初期頃から行われている払いの儀式[1]。「鬼やらい」(鬼遣らい、鬼儺などとも表記)、「儺(な)やらい」とも呼ばれる。

歴史

追儺の儀式は、『論語』の郷党篇にも記述があり、中国の行事がルーツである。日本においては天皇や親王が行う宮廷の年中行事となった。その後、変遷があり、現在の節分の元となった。

儀式の概要

方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負った役人(大舎人(おおとねり))と、方相氏の脇に仕える侲子(しんし)と呼ばれる役人(特に役職は決まっていない)が20人で、大内裏の中を掛け声をかけつつ回った。

方相氏は玄衣朱裳の(ほう)を着て、金色の目4つもった面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯をもった。方相氏が大内裏を回るとき、公卿清涼殿の階(きざはし)から弓矢をもって方相氏に対して援護としてのをひき、殿上人(でんじょうびと)らは振り鼓(でんでん太鼓)をふってを払った。

ところが9世紀中頃に入ると、鬼を追う側であった方相氏が逆に鬼として追われるようになる[1]。古代史家の三宅和朗はこの変化について、平安初期における触穢信仰の高まりが、葬送儀礼にも深く関わっていた方相氏に対する忌避感を強め、穢れとして追われる側に変化させたのではないかとしている。

追儺召の除目

追儺の儀式の時に行われる除目で、春の県召(あがためし)の除目や、秋の司召(つかさめし)の除目の際にもれた人を任官した。追儺の除目ともいう。

節分と追儺

追儺は節分のルーツともされている。この節分においては、鬼を豆によって追い払う。「節分祭追儺神事」を行う社寺もある。

脚注

  1. ^ a b 『年中行事事典』p491 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版

参考文献

関連項目

外部リンク