近衛宰子

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近衛 宰子(このえ さいし、仁治2年(1241年) - ?)は、鎌倉時代中期の公家女性。近衛兼経の娘。鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の正室。7代将軍惟康親王・掄子女王の母。

文応元年(1260年)2月5日、20歳で幕府執権北条時頼猶子として鎌倉に入り、3月21日、19歳の将軍宗尊の正室となり、御息所と呼ばれる。時頼の猶子にすることで、北条氏の女性が将軍に嫁すという形を取っている。文永元年(1264年)4月29日、惟康王を出産する。

文永3年(1266年)、宰子と出産の際に験者を務めた護持僧良基との密通事件が露見する。6月20日、良基は逐電し、連署である北条時宗邸で幕府首脳による寄合が行われ、宗尊親王の京都送還が決定されたと見られる。宰子とその子惟康らはそれぞれ時宗邸などに移された。

鎌倉は大きな騒ぎとなり、近国の武士たちが蜂のごとく馳せ集った。7月4日、宗尊親王は将軍職を追われ、女房の輿に乗せられて鎌倉を出ると、20日に帰洛することになる。京には「将軍御謀反」と伝えられ、幕府は3歳の惟康王を新たな将軍として擁立した。

その後、宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻った。都では良基は高野山で断食して果てた、または御息所と夫婦になって仲良く暮らしているなどと噂された。

娘の掄子女王は後宇多天皇の側室となって禖子内親王を産んでいる。

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