近藤元久

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近藤元久(こんどう もとひさ、1885年12月15日 - 1912年10月6日)は日本の初期のパイロットで、ロサンゼルスの近郊で、事故死した。航空機の事故で死亡した最初の日本人である。

伊予松山藩士・近藤南洲の次男として大阪で生まれた。松山中学の漢学の教師をしていた叔父・近藤元弘の養子となり松山中学を卒業後、1903年に単身、渡米した。8年ほどアメリカ合衆国で暮らした後、飛行家となることをめざしてサンディエゴのカーチス飛行学校で学び、1912年4月27日、万国飛行免状を得た。カーチス飛行学校では武石浩玻とともに学んだ。カーチス飛行学校で日本海軍の山田忠治河野三吉中島知久平の三人のカーチス水上機の実習の手伝いなどをした。飛行機を購入して帰国するための資金を稼ぐために、カーカム牽引式複葉機のテスト・パイロットとして雇われ、テスト飛行で操縦を誤り、農場の風車塔に激突し、飛行機から投げ出され塔に激突して即死した。

参考文献

  • 平木國夫『イカロスたちの夜明け』 グリーンアロー出版社 1996年