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西域番国志

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西域番国志(さいいきばんこくし、:Xi yu fan guo zhi)は明朝1414年永楽12年)、吏部験封司員外郎の陳誠(字は子魯)と苑馬寺清河監副の李暹による西域見聞録。一部は朝廷に上呈された。18章に分かれる。

哈烈撒馬児罕俺都淮八剌黒迭里迷沙鹿海牙塞蘭達失干卜花児渇石養夷別失八里土爾番崖児城塩沢城火州魯陳城哈密の記録がある。その記録は山河風土、住民、史跡、物産、気候、宗教、民俗、言語、文字など多岐に渡る。永楽帝により史官にも渡された。

意義

永楽帝は、三宝宦官の鄭和を西洋に派遣して土地風俗を見聞させた。一方、陸路で結ばれている西域各国の土地風俗についても知る必要があると考え、陳子魯、李暹ら外交官5使を西域に派遣した。

馬歓の書いた『瀛涯勝覧』によって明朝永楽年間の海路沿いの西洋各国の状況が把握でき、陳子魯の『西域番国志』と『西域行程記』でティムール帝国を含んだ陸路西域各国の状況と朝貢関係が把握できるので、これらで明成祖の外交政策の全貌を知ることができる。

『西域番国志』の記録は『明太宗実録』、『大清一統志』、『殊域周咨録』、『咸賓録』などにも少なからず引用されていることからも、この書籍の重要性をうかがい知ることができる。

参考文献