藤原近成

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藤原 近成(ふじわら の ちかなり、生没年不詳)は平安時代初期から中期頃の官人。官位従八位上筑後掾

仁和元年12月23日(886年1月31日)に、従七位下建部真貞大初位下大秦宗吉正六位上清原利蔭、無位・在原連枝、大宅宗永、藤原宗扶らと謀り、筑後守従五位下都御酉の館を襲い、御酉を射殺したとして、死罪となる。しかし、によって死一等減じ、遠流となったという[1]。その後の消息は不明。

また、『尊卑分脈』などの各系図には近成の名がなく、詳しい系譜は不明である。

脚注

  1. ^ 日本三代実録仁和元年12月23日条