藤原惟常
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 寛治4年(1090年)前後?[1] |
死没 | 大治5年6月8日(1130年7月14日) |
別名 | 家清(初名と推測)、小館惟常 |
氏族 | 奥州藤原氏 |
父母 | 父:藤原清衡、母:清原氏の娘 |
兄弟 | 惟常(家清)、基衡、正衡、清綱、男子、男子、娘(佐竹昌義室)、娘、娘[2] |
妻 | 不詳[3] |
子 | 男子[4]、杉目清信(杉目小太郎行信[5]、杉目次郎[6]、杉目宗三郎弘信[7]父) |
藤原 惟常(ふじわら の これつね)は、平安時代後期の豪族である奥州藤原氏の一族。父は初代当主・藤原清衡。母は清原氏の娘とされており、異母弟に第2代当主・藤原基衡(母は安倍氏の娘もしくは佐藤氏の娘)がいる。初名は家清と推測されており、別名の小館 惟常(こだち これつね)の名で知られている。父の死後、第2代当主の座を巡って、基衡と争うが敗死した。
「小館」の意味
惟常は跡継ぎ(ジュニア)を意味する「小館」と称されて独自の屋敷を構えており、後継者と目されていた可能性がある。当時、家の長子は親元を離れ、独立した屋敷を構えるという慣習があった。その屋敷は「小館」と呼ばれ、その屋敷の主も尊称の意味で「小館」と呼ばれていた。対して基衡は「御曹司」と称されて清衡と同じ屋敷に住んでいたといわれている。今でこそ、「御曹司」という言葉は跡取りの意味合いが強いが、当時は「そこに住まう人」や「居候」という意味だった。後に源義経も「そこに住まう人」や「居候」という意味で「御曹司」と称されている。この観点から言えば、正当な家督相続者は惟常で基衡は簒奪者だった。
異母弟・基衡との争乱と最期
源師時の日記『長秋記』には清衡死後の大治4年(1129年)、異母弟・基衡との争乱が記録されている。それによると、基衡は惟常の「国館」(国衙の事と思われる)を攻め、異母弟の圧迫に耐えかねた惟常は小舟に乗って子供を含め二十余人を引き連れて脱出し、越後国に落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃に出ようとするが、基衡は陸路軍兵を差し向け、逆風を受けて小舟が出発地に押し戻された所を惟常父子らを斬首したという。大治5年(1130年)6月8日のことである。この争乱の詳細は長秋記が記すのみで、平泉側(奥州藤原氏側)からの記録は発見されていない。当時、この内乱の記録があったとしても、惟常の死後、争いに勝利した基衡の時代となったため、意図的に記録が抹殺されたと考えることもできる。この内乱の背景には基衡自身の野心もあったかもしれないが、第一に考えられていることは、清原氏の娘を母に持つ惟常を担ぐ勢力と安部氏の娘を母に持つ基衡を担ぐ勢力との小競り合いがあったということである。しかし、平泉を中心地に選んだことで、陸奥国の経済力が出羽国の経済力を上回るようになり、惟常が敗北した一因と思われる。また、長子相続が絶対の時代ではなかったため、このような事態は平然と起こり得ることで、家臣たちにとって、独立した屋敷を構えていた惟常よりも父・清衡と共に住んでいた基衡の方が親しみやすかったのかもしれない。
死後
基衡はこの1年に渡る争乱に勝利し、奥州藤原氏の当主となる。なお、清衡の元妻が清衡死後に上洛して都の検非違使・源義成と再婚し、所々へ追従し、珍宝を捧げて清衡の二子合戦を上奏して都人の不興を買っている。この女性は基衡と反目し、後継者争いに関わって平泉を追われたのではないかと推測される。
脚注
- ^ 生年については諸説あり、大治3年(1128年)時点で36歳から37歳との推測もある。この場合、寛治6年(1092年)から翌寛治7年(1093年)に生まれたとされる。すぐ下の弟で異母弟でもある藤原基衡との年齢差は10歳程と目されており、基衡は1100年前後の生まれとされるため、そこからの逆算である。
- ^ 「紺紙金銀字交書一切経 大品経 巻二十二」の奥書から、元永2年(1119年)当時清衡には6男3女の子供がいたと見られる。応徳3年(1086年)に父清衡は異父弟家衡に屋敷を襲撃され、当時の妻子眷族を皆殺しにされている。
- ^ 源師時の日記『長秋記』大治5年(1130年)6月8日条には基衡が越後国に落ち延びようとする惟常父子らを斬首したという記述があることから、妻が1人いたことは確実視される。
- ^ 源師時の日記『長秋記』大治5年(1130年)6月8日条には基衡が越後国に落ち延びようとする惟常父子らを斬首したという記述がある。このことから、惟常には自身の子供として少なくとも男子が1人居たことが推測できるが、その男子に関しては名前すら記されていないため詳細は不明である。
- ^ 源義経の身代わりに自害したという伝説がある。
- ^ 詳細不明
- ^ 後に奥州藤原氏の武将として討死。