藤原定文

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藤原 定文(ふじわら の さだふみ、生年不明 - 延喜7年10月17日907年11月25日))は、平安時代初期から中期にかけての貴族藤原北家良門流、内大臣藤原高藤の子。官位従四位下右馬頭醍醐天皇

異母兄弟の定国定方とは違い自身は公卿には昇れず、右馬頭を務め位階従四位下であった。延喜7年(907年)10月17日卒去。翌延喜8年(908年)10月に周忌が行われ、六位蔵人藤原伊衡諷誦した[1]

系譜

脚注

  1. ^ 西宮記延喜8年10月11日条