藤原俊盛

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藤原 俊盛(ふじわら の としもり、保安元年(1120年)―没年不詳)は、平安時代末期の公卿。尾張守藤原顕盛の子で母は刑部卿藤原敦兼の娘。

祖父・藤原長実白河法皇の有力な院近臣の1人で、大治5年(1130年)には権中納言に任じられるが、後ろ盾であった白河法皇はその前年に没しており、代わりに院政を行った鳥羽上皇は長実一族の排除に乗り出した。同年、長実の長男であった顕盛は修理大夫を解任されたのもその一環であったとみられている。

続く長承2年(1133年)には長実が病死、翌長承3年(1134年)には俊盛が叙爵を受けるが、この年に父の顕盛が病死してしまう。その頃、鳥羽上皇は長実の娘である得子(後の美福門院)を寵愛し始めるが、排除の流れが変わる事は無かった。やがて、俊盛は叔母である得子の庇護を受けるようになる。保延2年(1136年)、得子は知行国として備後国を与えられ、直後に丹後国に変更されるが、この両国の受領として国守に任じられたのが俊盛であった。得子は鳥羽上皇に敵視された兄弟たちを排して、若年でこうした経緯と関わりのない甥の俊盛を上皇と自分の側近として育てることになる。以降、俊盛は越前国天養元年/1144年)・丹後国仁平2年/1152年)・讃岐国保元2年/1157年)と美福門院の知行国の国守を歴任しながら、女院・美福門院の側近として奉仕した。

永暦元年(1160年)に美福門院が没すると、後白河上皇の側近に転じ、上皇の信頼を得て年預別当に任ぜられて院の雑事を担当した。その功績によって長寛2年(1164年)、非参議ながら従三位に叙せられ、3年後には正三位に進んだ。その後、治承元年(1177年)に出家したことが確認できるが晩年の動向・死去した年月日は不明である。

参考文献

  • 五島邦治「藤原俊盛」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7
  • 橋本義彦「藤原俊盛」(『日本史大事典 5』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13105-5
  • 佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」(初出:『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5