蕭敵魯

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蕭敵魯(しょう てきろ、? - 918年)は、(契丹)の外戚は敵輦。子は蕭幹

経歴[編集]

敵魯は回鶻の胡母里の五世の孫にあたる。母は耶律撒剌的の妹。淳欽述律皇后は敵魯の同母異父妹にあたる。

敵魯は膂力にすぐれ、耶律阿保機の側近として仕えて、その征戦には必ず同行した。耶律阿保機が即位すると、敵魯は同母異父弟の蕭阿古只耶律釈魯耶律曷魯らとともに宿衛を統べた。敵魯は北府宰相に任じられ、その官を世襲することとされた。

耶律阿保機が劉守光を征討したとき、敵魯は海浜の地を経略し、多くの人々を殺し捕らえた。耶律阿保機の弟の耶律剌葛らが乱を起こし、敗れて北方に潰走すると、敵魯は軽騎を率いて昼夜兼行で追撃し、楡河でその一党を撃破し、耶律剌葛を捕らえた。のちに西南夷を討ったときも、功績は諸将に先んじた。918年3月に死去した。

伝記資料[編集]