董士選

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董 士選(とう しせん、1253年 - 1321年)は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は舜卿。

概要

董士選はモンゴル帝国に仕える漢人将軍の董文炳の次男。幼いころから父の下で武芸を学び、20歳にして父とともにバヤンを総司令とする南宋侵攻に従軍した[1]。バヤンは董文炳の息子と知らずに董士選の驍勇たることを称えたことがあったという。モンゴル軍が南宋の首都の臨安に入城する際、董文炳は先に城内に入って貴重な図籍・史書を接収したが、董士選もこれを手伝ったとされる[2]。臨安での接収後、董士選は新設された侍衛親軍諸衛の中で前衛指揮使に抜擢され、後に僉行枢密院事として湖広方面に派遣された[3]

1287年(至元24年)にナヤンの乱が勃発すると、クビライは叛乱平定のため自ら軍勢を率いて出陣し、董士選もこれに従った。激戦の中でクビライの乗る輿の前まで矢が飛んでくることもあったが、董士選らが歩兵を率いて敵軍を撃退したためクビライが危機を脱する場面もあった[4]1291年(至元28年)にそれまで専権を振るっていたサンガの一派が失脚すると、その穴を埋める形で董士選は中書左丞として浙西に派遣された。現地では悪徳商人の摘発や土地の開発に功績を残している[5]

クビライの死後にオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると僉行枢密院として建康に派遣されたが、程なくして江西行省左丞に転任となった。この頃、江西の贛州では劉六十なる盗賊が1万近くの配下を集めて問題となっており、朝廷の派遣した討伐軍まで退けるに至っていた。そこで董士選は大軍を帯同せず、ただ李霆鎮と元明善の2人のみを伴って贛州に向かい、まず民を虐げる官吏を捕縛した。また盗賊の首魁のみを誅して一般の民を追究しない方針を示したため、自然と盗賊の勢いは弱まり遂に平定された。これらの功績により、江南行御史台中丞、僉枢密院事、御史中丞と官職を歴任した[6]

オルジェイトゥ・カアン政権の右丞相であったオルジェイは劉深の進言を受けて八百媳婦国に出兵したが、過酷な気候により戦わない内から兵が十人中7・8人死亡するという事態に陥った。更に急ぎ遠征軍に糧食を供給するために民を酷使したことによって更に使者を増やしてしまったが、オルジェイらの権勢を慮って敢えて反対の意見を述べる者はいなかった。そこで董士選が不興を蒙るのを覚悟で遠征反対の意見を表明したものの、予想通りオルジェイトゥ・カアンは怒って董士選の進言を取り上げなかった。しかし、それ以後も敗報が続いたことによってオルジェイトゥ・カアンは董士選の正しさを認めざるをえなくなり、「董二哥(クビライがかつて董文炳を董大哥と呼んだことに由来する呼称)の言が正しかった」と述べて遠征をやめさせたという。その後、江浙行省右丞、汴梁行省平章政事を歴任して陝西に移ったが[7]1321年(至治元年)に69歳にして亡くなった[8]。董士選には武人としてだけでなく、当代を代表する文化人と交流し、文化保護に努める一面もあったと記録されている[9][10]

息子には雲南行省参知政事となった董守忠、侍正府判官となった董守愨、知威州となった董守思らがいた[11]

脚注

  1. ^ 藤島1986,20頁
  2. ^ 藤島1986,20頁
  3. ^ 『元史』巻156列伝43董士選伝,「士選字舜卿、文炳次子也。幼従文炳居兵間、晝治武事、夜読書不輟。文炳総師与宋兵戦金山、士選戦甚力、大敗之、追至海而還。及降張瑄等、丞相伯顔臨陣観之、壮其驍勇、遣使問之、始知為文炳子。奏功、佩金符、為管軍総管。戦数有功。宋降、従文炳入宋宮、取宋主降表及収其文書図籍、静重識大体、秋毫無所取、軍中称之。宋平、班師、詔置侍衛親軍諸衛、以士選為前衛指揮使、号令明正、得士大夫心。未幾、以其職譲其弟士秀。帝嘉其意。命士秀将前衛、而以士選同僉行枢密院事於湖広、久之召還」
  4. ^ 『元史』巻156列伝43董士選伝,「宗王乃顔叛、帝親征、召士選至行在所、与李労山同将漢人諸軍以禦之。乃顔軍飛矢及乗輿前、士選等出歩卒横撃之、其衆敗走。緩急進退有礼、帝甚善之」
  5. ^ 『元史』巻156列伝43董士選伝,「桑哥事敗、帝求直士用之、以易其弊、於是召士選論議政事、以中書左丞与平章政事徹理往鎮浙西、聴辟挙僚属。至部、察病民事、悉以帝意除之、民大悦。有聚斂之臣為奸利、事発得罪且死、詐言所遣舶商海外未至、請留以待之、士選曰『海商至則捕録之、不至則無如之何、不係斯人之存亡也。苟此人幸存、則無以謝天下』。遂竟其罪。浙多湖泊、広蓄泄以芸水旱、率為豪民占以種芸、水無所居積、故数有水旱、士選与徹理力開復之」
  6. ^ 『元史』巻156列伝43董士選伝,「成宗即位、僉行枢密院於建康。未幾、拝江西行省左丞。贛州盗劉六十偽立名号、聚衆至万餘。朝廷遣兵討之、主将観望退縮不肯戦、守吏又因以擾良民、賊勢益盛。士選請自往、衆欣然託之。即日就道、不求益兵、但率掾史李霆鎮・元明善二人、持文書以去、衆莫測其所為。至贛境、捕官吏害民者治之、民相告語曰『不知有官法如此』。進至興国県、去賊巣不百里、命択将校分兵守地待命。察知激乱之人、悉置于法、復誅奸民之為嚢槖者。於是民争出請自効、不数日遂擒賊魁、散餘衆帰農。軍中獲賊所為文書、旁近郡県富人姓名具在。霆鎮・明善請焚之、民心益安。遣使以事平報于朝。中書平章政事不忽木召其使謂之曰『董公上功簿邪』。使者曰『某且行、左丞授之言曰『朝廷若以軍功為問、但言鎮撫無状、得免罪幸甚、何功之可言』』。因出其書、但請黜贓吏数人而已、不言破賊事。廷議深歎其知体而不伐。拝江南行御史台中丞、廉威素著、不厳而粛、凛然有大臣風。入僉枢密院事、俄拝御史中丞。前中丞崔彧久任風紀、善斡旋以就事功。既卒、不忽木以平章軍国重事継之、方正持大体、天下望之、而已多病、遂以属之士選。風采明俊、中外竦然」
  7. ^ 『元史』巻156列伝43董士選伝,「時丞相完沢用劉深言、出師征八百媳婦国、遠冒煙瘴、及至未戦、士卒死者十已七八。駆民転粟餉軍、谿谷之間不容舟車、必負擔以達。一夫致粟八斗、率数人佐之、凡数十日乃至。由是民死者亦数十万、中外騒然。而完沢説帝『江南之地尽世祖所取、陛下不興此役、則無功可見於後世』。帝入其言、用兵意甚堅、故無敢諫者。士選率同列言之、奏事殿中畢、同列皆起、士選乃独言『今劉深出師、以有用之民而取無用之地。就令当取、亦必遣使諭之、諭之不従、然後聚糧選兵、視時而動。豈得軽用一人妄言、而致百万生霊於死地』。帝色変、士選猶明辨不止、侍従皆為之戦慄、帝曰『事已成、卿勿復言』。士選曰『以言受罪、臣之所当。他日以不言罪臣、臣死何益』。帝麾之起、左右擁之以出。未数月、帝聞師敗績、慨然曰『董二哥之言験矣、吾愧之』。因賜上尊以旌直言、始為罷兵、誅劉深等。世祖嘗呼文炳曰董大哥、故帝以二哥呼士選。久之出為江浙行省右丞、遷汴梁行省平章政事、又遷陝西」
  8. ^ 藤島1986,20頁
  9. ^ 藤島1986,20頁
  10. ^ 『元史』巻156列伝43董士選伝,「士選平生以忠義自許、尤号廉介、自門生部曲、無敢持一毫献者。治家甚厳、而孝弟尤篤。時言世家有礼法者、必帰之董氏。其礼敬賢士尤至。在江西、以属掾元明善為賓友、既又得呉澄而師之、延虞汲於家塾以教其子。諸老儒及西蜀遺士、皆以書院之禄起之。使以所学教授。遷南行台、又招汲子集与倶、後又得范梈等数人。皆以文学大顕於時。故世称求賢薦士、亦必以董氏為首。晩年好読易、澹然終其身。毎一之官、必賣先業田廬為行貲、故老而益貧、子孫不異布衣之士、仕者往往称廉吏云」
  11. ^ 『元史』巻156列伝43董士選伝,「子守忠、雲南行省参知政事。守愨、侍正府判官。守思、知威州」

参考文献

  • 元史』巻156列伝43董士選伝
  • 藤島建樹「元朝治下における漢人一族の歩み--藁城の董氏の場合」『大谷学報』66(3)、1986年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年