琉仏修好条約

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琉球・仏国間ノ条約
署名 1855年11月24日
咸豊5年・安政2年10月15日)
失効 1879年明治12年)
締約国 琉球王国フランス第二帝政(フランス帝国)
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琉仏修好条約(りゅうふつしゅうこうじゃうやく、フランス語: Convention entre la France et les Iles Liou-tchou[1][2])は、1855年11月24日咸豊5年・安政2年10月15日)に琉球王国フランス第二帝政(フランス帝国)が締結した通商条約。

1879年明治12年)の琉球処分で琉球王国が滅亡したことにより、失効したとされる。

締結までの経緯

1855年11月6日咸豊5年・安政2年9月27日)に条約締結交渉のため、ニコラ・ゲランがウイホヂウネー号他三隻のフランス船を率いて那覇港に寄港した。

翌日の11月7日(9月28日)から協議が始まり、1855年11月16日咸豊5年・安政2年10月7日)に琉球側は、条約の修正を要求するがフランス側はこれを退けた。

同月12日琉球側がもう一度条約の修正を願い出たところ、ゲランは約40名の兵を投入し尚景保らを武力を以て威嚇、強引に原案への調印を約束させた。

そして、1855年11月24日咸豊5年・安政2年10月15日)ゲランと尚景保らが調印し、条約成立に至った。

全権

主な内容

  • フランスとの自由貿易
  • フランス船舶への薪水の供給。
  • フランス船舶からの漂流民の救助と引渡し。
  • フランスに領事裁判権を認める。
  • フランス人の居住地の設置。

参考文献

  1. ^ 伊藤陽寿「尚泰請封問題と琉仏約条 : 一八五五年・一八五六年におけるフランス人逗留問題から」『沖縄文化研究= 沖縄文化研究』第43巻、法政大学沖縄文化研究所、2016年、167-208頁、doi:10.15002/00012795ISSN 1349-40152022年9月30日閲覧 
  2. ^ 旧条約彙纂. 第3巻(朝鮮・琉球)”. 2021年4月20日閲覧。

関連項目