牛温舒

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牛 温舒(ぎゅう おんじょ、生没年不詳)は、(契丹)の政治家本貫范陽郡

経歴[編集]

咸雍年間、進士に及第して、小官となった。太安初年、戸部使に累進し、給事中・知三司使事に転じた。道宗に有能を認められ、戸部侍郎の位を加えられ、三司使に転じた。寿昌年間、参知政事に任じられ、同知枢密院事を兼ねた。寿昌4年(1098年)、中京留守を兼任した。部民に正式な任につくよう請願を受け、正式に中京留守となった。召還されてまた三司使となった。

乾統初年、再び参知政事となり、知南院枢密使事をつとめた。乾統5年(1105年)、西夏北宋の攻撃を受けると、西夏の使者が遼に来て和平の仲介を求めた。乾統6年(1106年)1月、温舒は蕭得里底とともに北宋への使者に立った。温舒は河北で道士の装束をした俳優に会ったところ、その俳優は「土少なくば和あたわず」と言った。そこで温舒は手に耕土を抱いて徽宗に面会した。徽宗がその理由を訊ねると、温舒は「臣は天子の命を受けて和平の斡旋にまいりました。もし従われない場合は、土を持って去るでありましょう」と答えた。宋の朝廷は驚倒して、西夏との和平を許した。温舒は帰国すると、中書令の位を加えられ、まもなく死去した。

伝記資料[編集]