ウラナラ氏
ウラナラ氏(満洲語:ᡠᠯᠠ
ᠨᠠᡵᠠ
ᡥᠠᠯᠠ, 転写:Ula Nara hala, 漢文:烏拉那拉氏または烏喇氏)は、満洲の著名な姓氏であるナラ氏の主要な分派の一つで、ウラ地方のナラ氏が名告ったことに始まる。
概要
[編集]発祥
[編集]ウラナラ氏は、満洲八大姓の一つに数えられる「ナラ氏」の主要な分派の一つで、ハダナラ氏、イェヘナラ氏、ホイファナラ氏とともに有名な四つのナラ氏の一角をなす。
ウラナラ氏の始祖は初代ウラ国主・ブヤンとされ、ブヤンはナラ氏始祖・ナチブルの昆孫にあたる。ナチブルが樹立した地方政権的国家のフルン・グルン (扈倫・国) がブヤンの祖父、父の代で瓦解すると、ブヤンはフルンの再興を目指してフルン都城の跡地にウラ・ホトン (烏拉・城) を築き、続いてウラ・グルン (烏拉・国) を樹立する。このウラ・グルンの一族がすなわちウラナラ氏である。
ウラ・グルンは初代のブヤンからブガン、マンタイ、ブジャンタイと4代続いたが、最終的にブジャンタイがマンジュ・グルン (満洲・国 ≒ 建州部) のヌルハチに敗れ、イェヘに逃れたことで消滅した。消滅した後のウラナラ氏一族や属民はことごとくマンジュに吸収され、後にヌルハチがマンジュを基にアイシン・グルン (後金) を樹立すると、新たに創設された八旗制度の中に組み込まれてゆく。
後裔
[編集]ヌルハチのマンジュとウラナラ氏の間には、ウラが滅びる以前から姻戚関係が結ばれ、清朝の中でも重要とされる多くの人物を出産している。マンタイの娘のアバハイ (大妃) はヌルハチに嫁いで、後にドルゴン三王を出産している。そのほか、マンタイの叔父・ボクドの娘は粛親王ホーゲを出産し、[1][2]少し遡って五代目フルン国主・グデイ・ジュヤンの兄筋からは雍正帝が愛した孝敬憲皇后が輩出されている。[1]
中華民国以後、ウラナラ氏は満姓から漢姓に切り替えていったが、多くは趙姓を名告り (→参照:「洪匡」)、他に相(xiàng)、那(nā[3])、桐、冮(gāng)を名告るものもいた。[4]余談だが、ウラナラ氏および海西女直の研究をしている吉林師範大学客員教授の趙東昇氏は、末代ウラ国主・ブジャンタイの後裔とされる。[5]
なお、ハダナラ氏は四代目フルン国主のドゥルギの弟筋から枝分かれした一族のため、ウラナラ氏とは宗族であるが、イェヘナラ氏は一説にはトゥメト部蒙古人がナラ氏に改姓した後、イェヘ地方に移徙してイェヘ地方ナラ氏を名告ったものとされ、同様にホイファナラ氏は東海女直 (野人女直) のイクデリ氏が改姓してホイファ地方ナラ氏を名告ったものである。
また、ナチブルの別脈はイハン (伊罕) 山に移居し、後にイラリ (伊拉理) 氏[6]を形成する。
族譜
[編集]- 子・ドルホチ。
『八旗滿洲氏族通譜』
[編集]目録
[編集]『八旗滿洲氏族通譜』巻23「烏喇地方納喇氏」の目録に列挙されている人物 (代表者) は下記一覧の通り。原典では事績の遺る者と遺らない者とで大きくわけている為、ここではそれに従う。
有事績者:
以下の人物には基本的に事績が記録として遺っているが、一部例外もあり。『八旗滿洲氏族通譜』では特に細かい項目立てまではされていないが、ここでは便宜上、先祖ごとに分類した。なお、人物の紹介順序は原典に同じ。また、一部人物は別の記事にて紹介している為、ここでは参照先リンクの紹介に止める。
1) ブジャンタイの子孫
- ダルハン (達爾漢):「ブジャンタイ (ウラナラ氏)」の子孫の項参照。
2) マンタイの子孫
- アブタイ (阿布泰):「マンタイ (ウラナラ氏)」の子孫の項参照。
3) ブガンの子孫
- トゥダリ (図達理):「ブガン (ウラナラ氏)」の子孫の項参照。
4) ブヤンの子孫
- ロサ (羅薩):「ブヤン (ウラナラ氏)」の子孫の項参照。
- マンドゥブル (満都布禄):「ブヤン (ウラナラ氏)」の子孫の項参照。
- チャンジュ (常住):「ブヤン (ウラナラ氏)」の子孫の項参照。
- マンギャン・タイチ (莽鑒台斉):「ブヤン (ウラナラ氏)」の子孫の項参照。
- モルホン (謨爾渾):「ブヤン (ウラナラ氏)」の子孫の項参照。
5) グデイ・ジュヤンの子孫:
6) ドゥルギの子孫
7) 先祖不詳
- ノシ (nosi, 諾錫):後述。
- ヤンギヌ (yangginu, 揚吉努):後述。
- カラ (kara,喀喇):後述。
無事績者:
以下の人物には基本的に事績が記録として遺っていない (人名と職名のみ)。『八旗滿洲氏族通譜』では、ヌルハチが樹立したアイシン・グルン (後金) あるいはその前身であるマンジュ・グルン (建州部/満洲国) への帰順時期ごと、及び隷属する旗ごとに分類している為、ここではそれに従う。
1) 後金初期
【鑲黄旗】アルタイ (artai, 阿爾泰)、ウンタイ (untai, 温泰)、マハ (maha, 瑪哈)、ヤンフ (yangfu, 揚福)。
【正白旗】フンガイ (hūnggai, 洪愛)、アランタイ (arantai, 阿蘭泰)、サムハ (samha, 薩穆哈)。
【正紅旗】リョードゥン (liyoodung, 遼東)。
【鑲白旗】アサン (asan, 阿山)、バイナ (baina, 拝那)、ランガリ (langgari, 郎阿理)、アルフ (arhū, 阿爾瑚)。
【鑲紅旗】チャハダイ (cahadai, 察哈岱)。
【正藍旗】チマク (cimaku, 斉瑪庫)、エリケン (eliken, 額礼肯)。
【鑲藍旗】フシハ (hūsiha, 瑚錫哈)、ジランタイ (jilantai, 済蘭太)。
2) 天聡年間
【鑲黄旗】ダイミン (daimin, 代敏)。
【正黄旗】カルカマ (karkama, 喀爾喀瑪)、ボジダ (bojida, 博済達)。
【鑲藍旗】ドゥンガ (dungga, 東阿)。
3) 帰順時期不明
【鑲黃旗】ナム (namu, 納穆)。
【鑲白旗】バムブタイ (bambutai, 班布泰)、アリン (alin, 阿林)、ギンタイ (gintai, 金泰)、ギュセ (giose, 九塞)、トーヅ (toodzi, 陶資)。
【鑲紅旗】デキネ (dekine, 徳奇訥)、フンタイ (funtai, 芬泰)。
【鑲藍旗】ナムダリ (namdari, 那穆達理)。
- - - - - 以下本編 - - - - -
有事績者
[編集]ノシ (諾錫)
[編集]事績・栄典:
ノシ (諾錫) は、ウラ地方から帰順し、正藍旗包衣に編入された。帰順時期は不明。子のアハショセ (阿哈碩色) はボーイ・ニルイ・ジャンギンを務め、北京入城 (明清交替) 後、ホンタイジの治世下での功労が評価されて騎都尉を授与され、三度の優詔で二等軽車都尉に昇格した。死後、継嗣なく、実弟の子・ヤルタイ (雅爾泰) が襲職し、ヤルタイ死後はヤルタイの子・ウルドゥン (呉爾敦)、ウルドゥンの子・トゥンボーグイ (同保貴) が相継いで襲職した。[7]
ヤンギヌ (揚吉努)
[編集]ヤンギヌ (yangginu, 揚吉努):副都統を歴任した。[9]★
- 子・ウンチャ (unca, 温察):佐領を務めた。[10][9]★
ワンシ (wangši, 汪実):ヤンギヌの実弟。[12]
- 子:不詳。
- 孫・バシ (baši, 巴什):歩軍校を務めた。[12]
事績・栄典:
ヤンギヌ (揚吉努) はナラ氏の出身だが、幼時に父母を亡くして母方の伯叔の許に身を寄せた為、グヮルギャ氏 (瓜爾佳)[13]を名告った。[14]アイシン (後金) 初期にウラ地方から帰順して鑲藍旗に編入され、ニルを組織して子のウンチャ (温察) に統轄させた。[9]
カラ (喀喇)
[編集]カラ (kara, 喀喇):郎中を務め、佐領を兼任した。[15]★
事績・栄典:
カラ (喀喇) は、アイシン (後金) 初期にウラ地方から帰順し、正白旗に編入された。勅命を受けて初の満洲語の書籍を上梓した[16]ことにより、バクシ[17](称号) と騎都尉 (世職) を授与された。[15]
無事績者
[編集]1) 後金初期に帰順
[編集]【鑲黄旗】
[編集]アルタイ (阿爾泰)
[編集]アルタイ (artai, 阿爾泰):先祖不詳。前鋒校を務めた。[18]
ウンタイ (温泰)
[編集]ウンタイ (untai, 温泰):先祖不詳。前鋒参領を務めた。[18]
- 子・ウルゲチェン (urgecen, 烏爾格陳):驍騎校を務めた。[18]
- 子・レドゥンゲ (ledungge, 勒東額):前鋒校を務めた。[18]
マハ (瑪哈)
[編集]マハ(maha、瑪哈):先祖不詳。護軍校を務めた。[18]
- 子・サオダセ (saodase, 騷達色):員外郎を務めた。[18]
ヤンフ (揚福)
[編集]ヤンフ (yangfu, 揚福):先祖不詳。ボーイ・ニャルマ。[18]
【正白旗】
[編集]フンガイ (洪愛)
[編集]フンガイ (hūunggai, 洪愛):先祖不詳。頭等侍衛を務めた。[21]
- 子・サインダリ (saindari, 賽音達理):頭等護衛を務めた。[21]
アランタイ (阿蘭泰)
[編集]アランタイ (arantai, 阿蘭泰):先祖不詳。驍騎校を務めた。[21]
サムハ (薩穆哈)
[編集]サムハ (samha, 薩穆哈):先祖不詳。ボーイ・ニャルマ。[21]
- 子・ダハタ (dahata, 達哈塔):内管領を務めた。[21]
ウダブ (udabu, 呉達布):サムハ (薩穆哈) の実弟。[21]
- 子:不詳。
【正紅旗】
[編集]リョードゥン (遼東)
[編集]リョードゥン (遼東, liyoodung):先祖不詳。[22]
- 子:不詳。
- 孫・ナルトゥ (nartu, 納爾図):護軍校を務めた。[22]
【鑲白旗】
[編集]アサン (阿山)
[編集]アサン (asan, 阿山):先祖不詳。正黄旗より鑲白旗に転属した。[23]
バイナ (拝那)
[編集]バイナ (baina, 拝那):先祖不詳。正黄旗より鑲白旗に転属した。[23]
ランガリ (郎阿理)
[編集]ランガリ (langgari, 郎阿理):先祖不詳。鑲黄旗より鑲白旗に転属した。[23]
- 子:不詳。
- 孫・エルビネ (elbine, 額爾璧訥):父不詳。驍騎校を務めた。[23]
アルフ (阿爾瑚)
[編集]アルフ (arhū, 阿爾瑚):先祖不詳。[23]
- 子:不詳。
- 孫:不詳。
- 曾孫・フジュ (hūju, 瑚珠):父不詳。驍騎校を務めた。[23]
- 孫:不詳。
【鑲紅旗】
[編集]チャハダイ (察哈岱)
[編集]チャハダイ (cahadai, 察哈岱):先祖不詳。[24]
【正蓝旗】
[編集]チマク (斉瑪庫)
[編集]チマク (cimaku, 斉瑪庫):先祖不詳。[25]
- 子・ラハ (laha, 拉哈):鳴賛を務めた。[25]
エリケン (額礼肯)
[編集]エリケン (eliken, 額礼肯):先祖不詳。[25]
- 子:不詳。
【鑲藍旗】
[編集]フシハ (瑚錫哈)
[編集]フシハ (hūsiha, 瑚錫哈):先祖不詳。[26]
ジランタイ (済蘭太)
[編集]ジランタイ (jilantai, 済蘭太):先祖不詳。[26]
2) 天聡年間に帰順
[編集]【鑲黄旗】
[編集]ダイミン (代敏)
[編集]ダイミン (daimin, 代敏):ボーイ・ニャルマ。牧長を務めた。
- 子・チシバ (cišiba, 七十八):膳房總領を務めた。
- 子・クワハイ (kūwahai, 夸海):護軍校を務めた。
- 孫・ゲルブ (gerbu, 格爾布):父不詳。牧長を務めた。
- 孫・シデ (šide, 石徳):父不詳。侍衛署叅領を務めた。
- 曾孫・ウェヘ (wehe, 倭赫):父不詳。司庫を務めた。
- 曾孫・フシタ (hūšita, 瑚什塔):父不詳。護軍校を務めた。
- 玄孫・ジュンシェムボー (jungšemboo, 衆神保):父不詳。三等侍衛を務めた。
- 玄孫・エルゲ (elge, 二格):父不詳。内管領を務めた。
- 来孫・エルギエン (elgiyen, 額爾錦):父不詳。員外郎を務めた。
【正黄旗】
[編集]カルカマ (喀爾喀瑪)
[編集]*カルカマ (karkama, 喀爾喀瑪) の子孫は「ブヤン (ウラナラ氏)」の子孫の項参照。
*タイフィカ (taifika, 台費喀) の子孫は「グデイ・ジュヤン」の子孫の項参照。
*グセン・サングル (gusen sangguru, 固森桑古魯) の子孫は「ドゥルギ」の子孫の項参照。
ボジダ (博済達)
[編集]ボジダ (bojida, 博済達):先祖不詳。
- 子・ジュンナイ (jungnai, 鍾鼐):牧長を務めた。
- 孫・ソホン (sohon, 索渾):父不詳。内管領を務めた。
- 孫・サンゲヅ (sanggedzi, 桑格梓):父不詳。司胙官を務めた。
- 曾孫・ライボー (laiboo, 賚保):父不詳。ビトヘシを務めた。
- 曾孫・ヘイセ (heise, 赫色):父不詳。内副管領を務めた。
- 曾孫・ソジュ (soju, 索柱):父不詳。内管領を務めた。
- 曾孫・ゴリイ (g'olii, 郭礼):父不詳。内管領を務めた。
- 玄孫・マルハン (marhan, 瑪爾漢):父不詳。司庫を務めた。
【鑲藍旗】
[編集]ドゥンガ (東阿)
[編集]*ドゥンガ(dungga, 東阿) の子孫は「ブジャンタイ (ウラナラ氏)」の子孫の項参照。
尚、ドゥンガ (ブジャンタイの七子) の一族の者として以下の人物が紹介されているが、父不詳のため、ドゥンガとの続柄も不詳。従ってひとまづここで紹介する。中国語の「族○」という表現は「一族の◯世代の人」の意。「族侄(=甥)」なら、実兄弟の子ではなく、それよりも遠い侄(=甥)世代の族人の意。
- - - - -
- エルジトゥ (eljitu, 額爾済図):ドゥンガの族甥。父不詳。佐領を務めた。
- ジンチャン (jincang, 晋常):ドゥンガの族甥。父不詳。二等護衛を務めた。
- ナチンガ (nacingga, 納清阿):ドゥンガの族孫。父不詳。二等護衛を務めた。
- ナミンガ (namingga, 納明阿):ドゥンガの族孫。父不詳。護軍校を務めた。
- エルデンゲ (eldengge, 額爾登莪):ドゥンガの族曾孫。父不詳。六品のボーイ・ダ (包衣大=管領) を務めた。
- - - - -
3) 帰順時期不明
[編集]【鑲黄旗】
[編集]ナム (納穆)
[編集]【鑲白旗】
[編集]バムブタイ (班布泰)
[編集]バムブタイ (bambtai, 班布泰):ボーイ・ニャルマ。正白旗より鑲白旗に転属した。[28]
アリン (阿林)
[編集]アリン (alin, 阿林):先祖不詳。膳房総領を務めた。正白旗より鑲白旗に転属した。イェヘ地方の正黄旗ボーイ・ニャルマ のナランタイ (narantai, 納蘭泰) とは同一族。[28]
- 子:不詳。
ギンタイ (金泰)
[編集]ギンタイ (gintai, 金泰):先祖不詳。正白旗より鑲白旗に転属した。[28]
- 子:不詳。
ギュセ (九塞)
[編集]ギュセ (giose, 九塞):先祖不詳。正白旗より鑲白旗に転属した。[28]
トーヅ (陶資)
[編集]トーヅ (toodzi, 陶資):先祖不詳。正白旗より鑲白旗に転属した。[28]
- 子:不詳。
- 孫:不詳。
- 曾孫・ソジュ (soju, 索柱):父不詳。牧長を務めた。[28]
- 孫:不詳。
【鑲紅旗】
[編集]デキネ (徳奇訥)
[編集]デキネ (dekine, 徳奇訥):先祖不詳。[29]
- 子:不詳。
- 孫:不詳。
- 曾孫・ウシバ (ušiba, 五十八):父不詳。佐領を務めた。[29]
- 曾孫・フシバ (hūšiba, 瑚什巴):父不詳。頭等護衛を務めた。[29]
- 曾孫・マブ (mabu, 瑪布):父不詳。頭等護衛を務めた。[29]
- 曾孫・ワルダ (walda, 瓦爾達):父不詳。郎中を務めた。[29]
- 曾孫・ヤルブ (yarbu, 雅爾布):父不詳。護軍校を務めた。[29]
- 曾孫・ヤンデ (yangde, 揚徳):父不詳。護軍校を務めた。[29]
- 曾孫・サムボー (samboo, 三保):父不詳。驍騎校を務めた。[29]
- 玄孫・フォボー (foboo, 仏保):父不詳。佐領を務めた。[29]
- 玄孫・レキ (leki, 勒啓):父不詳。郎中を務めた。[29]
- 玄孫・ヤセブ (yasebu, 雅色布):父不詳。二等護衛を務めた。[29]
- 玄孫・バル (balu, 巴禄):父不詳。二等護衛を務めた。[29]
- 玄孫・イリブ (ilibu, 伊礼布):父不詳。三等護衛を務めた。[29]
- 玄孫・オミシャン (omišan, 鄂密善):父不詳。歩軍校を務めた。[29]
- 玄孫・シャルフダイ (šarhūdai, 沙爾瑚岱):父不詳。城門尉を務めた。[29]
- 玄孫・チャンボー (cangboo, 常保):父不詳。防禦を務めた。[29]
- 玄孫・アムボー (amboo, 安保):父不詳。歩軍校を務めた。[29]
- 孫:不詳。
フンタイ (芬泰)
[編集]フンタイ (funtai, 芬泰):ボーイ・ニャルマ。ボーイ・ニルイ・ジャンギン (包衣佐領) を務めた。[29]
【鑲藍旗】
[編集]ナムダリ (那穆達理)
[編集]ナムダリ (namdari, 那穆達理):先祖不詳。
- 子:不詳。
- 孫・ウルハナ (urhana, 武爾哈納):員外郎を務めた。
脚注
[編集]- ^ a b “太宗諸妃”. 清史稿. 214. 清史館
- ^ 『愛新覺羅宗譜』「星源集慶」によるとボクドの娘。
- ^ 姓氏の時は一声によむ。
- ^ 满族姓氏寻根词典. 遼寧民族出版社. p. 404
- ^ “我的家族与“满族说部””. 社会科学战线 (2). (2008).
- ^ 宮廷ドラマ『如懿傳』(主演:周迅)では、純妃蘇氏(漢)が養子の永璜(大阿哥)に妻せたのが遠縁の従妹であるイラリ(伊拉里)氏。
- ^ a b c d e f “烏喇地方納喇氏:諾錫”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書
- ^ “ᠨᠣᠰᡳ (nosi, 諾錫)”. ᠵᠠᡴᡡᠨ ᡤᡡᠰᠠᡳ ᠮᠠᠨᠵᡠᠰᠠᡳ ᠮᡠᡴᡡᠨ ᡥᠠᠯᠠ ᠪᡝ ᡠᡥᡝᡵᡳ ᡝᠵᡝᡥᡝ ᠪᡳᡨᡥ (八旗滿洲氏族通譜). 23. 四庫全書. "ᠠᡥᠠᡧᠣᠰᡝ ᡩᠠᡩᡝ ᠪᠣᠣᡳ ᠨᡳᡵᡠᡳ ᠵᠠᠩᡤᡳᠨ ᠪᡳᡥ (転写:ahašose dade booi nirui janggin bihe, 逐訳:アハショセ、はじめ、家の、ニルの、長、であった)"
- ^ a b c “烏喇地方納喇氏:揚吉努”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "鑲藍旗人……"
- ^ 『八旗滿洲氏族通譜』原文に「佐領令其子溫察統之」とあるのに拠る。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “烏喇地方納喇氏:揚吉努”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "……孫……"
- ^ a b “烏喇地方納喇氏:揚吉努”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "……又揚吉努親弟……"
- ^ 満文版『八旗滿洲氏族通譜』では「gūwalgiya」、漢文版では「□爾佳」で、一文字欠落。
- ^ つまり母の出自はグヮルギャ氏。グヮルギャ氏もナラ氏と同様に各地に存在するため、ウラ地方のグヮルギャ氏なのか、他地方のなのかはここでは不明。
- ^ a b c d “烏喇地方納喇氏:喀喇”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書
- ^ 漢文版『八旗滿洲氏族通譜』の「創制清書」四文字に対応する満文版の原文は「ᡶᡠᡴᠵᡳᠨ ᠮᠠᠨᠵᡠ ᠪᡳᡨᡥᡝ ᠪᠠᠨᠵᡳᠪᡠᠮᡝ ᠠᡵᠠᡥᠠ (転写:fukjin manju bithe banjibume araha, 逐訳:初、満洲、書、組み分け、作った)」で、「banjibume araha」は編纂するの意、つまり満洲語の書物を編纂したということ。ただ、中々偉大な業績であるにもかかわらず、『清史稿』には「喀喇」という人物はいてもタタラ氏 (他塔喇) のため全くの別人で、ほかにはそれらしき人はいない為、何の書物なのかも不明。ホンタイジが即位するのは崇徳元年=天聡10(1636)年で、ヌルハチが後金を樹立するのは天命元(1616)年。 乾隆年間に上梓された『滿洲老檔』は『滿洲原檔』を基に整理されたとされ、収録されているのはホンタイジ即位までの記事。ダハイにより有圏点の満洲文字が完成するのは天聡6(1632)年とされるので、『滿洲原檔』が書かれたのは有圏点の完成以降のはずだが、実際は無圏点で書かれている。
- ^ Wikisource上で「巴克仆」となっているのは恐らく「巴克什」(baksi) の見誤り。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x “其餘無事蹟可立傳者附載於後”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "鑲黄旗阿爾泰……"
- ^ フィヤングという人名は珍しくなく、アルタイの子・フィヤングと、ボフチャの子孫のフィヤング (清世宗孝敬憲皇后の父) は別人物。また、フィヤング (fiyanggū) は満洲語で「末」「最小」の意味があり、転じて「末子」の意味。或いは日本語の「チビ」に似た意味合いの愛称かもしれない。
- ^ “ᡶᡳᠶᠠᠩᡤᡡ fiyangguu”. 新满汉大词典. 新疆人民出版社. p. 277 . "[形] ❶ 老生子 (最后生的孩子):…… ❷ 小拇指。"
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad “其餘無事蹟可立傳者附載於後”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "○正白旗洪愛……"
- ^ a b “其餘無事蹟可立傳者附載於後”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "○正紅旗遼東……"
- ^ a b c d e f g h i j “其餘無事蹟可立傳者附載於後”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "○鑲白旗阿山……"
- ^ a b c “其餘無事蹟可立傳者附載於後”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "○鑲紅旗察哈岱……"
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “其餘無事蹟可立傳者附載於後”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "○正藍旗齊瑪庫……"
- ^ a b c d e f “其餘無事蹟可立傳者附載於後”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "○鑲藍旗瑚錫哈……"
- ^ a b c “其餘無事蹟可立傳者附載於後”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "鑲黄旗包衣納穆……"
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t “其餘無事蹟可立傳者附載於後”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "○鑲白旗包衣班布泰……"
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab “其餘無事蹟可立傳者附載於後”. 八旗滿洲氏族通譜. 23. 四庫全書 . "○鑲紅旗徳奇訥……"
- ^ 『八旗滿洲氏族通譜』漢文版の原文は「成柱今隸本旗滿洲旗分」、対する満文版は「cengju ne tesu gūsai manju gūsade bi (逐訳:チェンジュ、今、本(この)、旗(グサ)の、マンジュ、旗(グサ)に、いる)」。
参照
[編集]史籍
[編集]- 弘昼(愛新覚羅氏), 鄂尔泰(西林覚羅氏), 福敏(富察氏),徐元夢 (舒穆祿氏)『八旗滿洲氏族通譜』四庫全書, 1744 (漢文)
- オルタイ (鄂尔泰)『han i araha jakūn gūsai manjusai hala be uheri ejehe bithe』(欽定八旗氏族通譜) 1745 (満文)
- 趙爾巽, 他100余名『清史稿』清史館, 1928 (漢文) *中華書局版
研究書
[編集]- 趙東昇『扈伦研究』1989 (中国語)
- 趙力『满族姓氏寻根词典』遼寧民族出版社, 2012 (中国語) *维基百科からの引用のため詳細不明。
論文
[編集]- 『日本大学史学会 史叢』巻78, 綿貫哲郎「『世職根源冊』からみた清初の降清漢人」
- 『社会科学战线』2008年第2期, 趙東昇「我的家族与“满族说部”」(中国語)