水野長勝

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水野長勝
時代 戦国時代-江戸時代
生誕 天文元年(1532年
死没 慶長14年(1609年)11月3日
別名 国丸、藤助、新右衛門
墓所 昌国寺
官位 従五位下、石見
幕府 江戸幕府旗本
主君 織田信長→北条氏政→徳川家康
氏族 水野氏
父母 父:水野成清、母:於丈の方(水野忠政娘)
貞正、女子、養子:忠貞
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水野 長勝(みずの ながかつ)は、戦国時代武将、江戸幕府旗本。水野成清の子。徳川家康は母方の従弟にあたる。

生涯

水野長勝は、天文2年に父・成清が自害した際、母と共に刈谷に逃れるが、母が形原松平家広と再婚するにあたり三河国形原へ同行し、家広に養育された。

成長後は、織田信長に仕え尾張国石ヶ瀬川の戦いで戦功を挙げ、信長から感状を与えられた。信長の死後は北条氏政につかえ、北条氏邦の配下となった。

後北条氏滅亡後の天正19年7月に徳川家康に召し出され、武蔵国男衾郡のうち800石を賜った。

慶長7年5月、伏見城の定番となり、奏者番を兼ねた。このとき大和国宇智郡・葛下郡・式下郡のうちで2000石の加増を受けた。

慶長9年6月22日、従五位下石見守に叙任。慶長14年11月3日、伏見において死去。享年78。跡は、養子の忠貞が継いだ。

参考文献

  • 「寛政重修諸家譜巻第340 」