楊広香

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楊 広香(楊廣香、よう こうきょう、生没年不詳)は、中国南北朝時代仇池氐首長。陰平公。

経歴[編集]

楊難当の族弟にあたる。早くに北魏に亡命した。477年、北魏軍が楊文度を攻め殺すと、広香は北魏の陰平公・葭蘆鎮主とされた[1]

478年南朝宋が将軍を派遣して仇池を攻撃すると、北魏の陰平郡太守であった広香がこれを撃退した[2]

479年、広香は南朝斉の都督沙州諸軍事・平羌校尉・沙州刺史となった[3]。ほどなく征虜将軍に進んだ。南朝斉の豫章王蕭嶷は広香に楊文弘を討つよう親書を送った。広香は南朝斉の高帝により持節・都督・西秦州刺史に任じられた[4]

広香は481年以前に病死したものと思われる[5]

子の楊炅が後を嗣いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 南斉書』氐楊氏伝によるが、文慶は文度に、茄蘆は葭蘆に改めた。なお『梁書』諸夷伝および『南史』夷貊伝下は「自立して陰平王・茄蘆鎮主となった」とする。
  2. ^ 魏書』高祖紀太和2年秋7月戊辰の条
  3. ^ 『南斉書』氐楊氏伝による。広香が沙州刺史となったことは、同書高帝紀下建元元年秋7月丙辰の条にも見える。
  4. ^ 『南斉書』氐楊氏伝
  5. ^ 『南斉書』氐楊氏伝の建元3年に見える楊文弘の帰降記事に「先是廣香病死(先立って広香は病死した)」とあるので、481年以前とみなされている。