松平頼邑

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松平 頼邑
時代 江戸時代中期
生誕 享保17年8月19日1732年10月7日
死没 天明元年5月7日1781年6月28日
改名 久松丸(幼名)、頼邑
戒名 智性院殿道仁日雅大居士
墓所 身延山久遠寺
官位 従四位下権少将侍従左京大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
伊予西条藩
氏族 紀州徳川家支流西条松平家
父母 松平頼渡松平忠雅の娘・清性院
兄弟 頼邑、幸姫、成、知衛、嘉代
養子頼淳
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松平 頼邑(まつだいら よりさと)は、江戸時代中期の大名伊予西条藩の第4代藩主官位従四位下権少将侍従左京大夫

略歴

第3代主・松平頼渡の長男として誕生。

享保17年(1732年)8月19日生まれ。元文3年(1738年)、頼渡の死去により跡を継いだ。藩財政再建のため、鷲見藤左衛門を登用している。延享2年(1745年)に叙任している。しかし、生来から病弱だったために藩政が執れないことが多く、それを理由に宝暦3年(1753年)7月29日、養嗣子・頼淳に家督を譲って隠居した。

天明元年(1781年5月7日、50歳で死去した。