李楨

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李 楨(り てい、? - 1258年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。

略歴[編集]

李楨はタングート人の国家西夏の国族の出で、トルカク(質子)としてモンゴル帝国に仕えるようになったという。同時期にチンギス・カンに仕えた非モンゴル人には耶律楚材の皇族)[1]チュンシャン金朝の貴族)[2]ジャバル・ホージャらがおり、李楨も彼等と同様に出自の良さと容貌が優れていることからチンギス・カンに取り立てられたものと見られる[3]

オゴデイの子のクチュを総司令とする南宋遠征が始まると李楨はクチュの補佐に任じられ、オゴデイはクチュに「軍中のことは全て李楨に相談の上行うように」と言いつけたという。1238年には大将チャガンに従って淮甸を降し、この功績によって軍前行中書省左右司郎中とされた。

1241年、李楨はチャガンの下で寿春の包囲戦に加わっていたが、城民の抗戦と長く続く降雨によって戦闘は膠着状態に陥っていた。そこで李楨はチャガンにこのままでは包囲戦が長引き、その報復として城民の虐殺が生じてしまうであろうことを説き、一度軍を引いた上で、李楨が単独で降伏を勧告することを申し出た。チャガンの許可を得た李楨は単身寿春に入って城民を説得し、翌日には寿春を降伏させることに成功した。その後、第3代皇帝グユクには南宋征服には襄陽城の攻略が不可欠であると進言している。

1250年に李楨は襄陽軍馬万戸に任ぜられ、1256年には第4代皇帝モンケより襄樊一帯を威力偵察するよう命じられている。1258年、モンケより召還された李楨は南宋親征に従軍することとなったが、同年9月に59歳で合州で亡くなった[4]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻146列伝33,「耶律楚材、字晋卿、遼東丹王突欲八世孫」
  2. ^ 『元史』巻146列伝33,「粘合重山、金源貴族也」
  3. ^ 杉山1996,240-241頁
  4. ^ 元史』巻124列伝11李楨伝,「李楨、字幹臣。其先、西夏国族子也。金末、楨以経童中選。既長、入為質子、以文学得近侍、太宗嘉之、賜名玉出干必闍赤。従皇子闊出伐金、帝命之曰『凡軍中事、須訪楨以行』。及下河南諸郡、闊出遣楨偕吉登哥往唐・鄧二州数民実、兵余歳凶、流散十八九。楨至、賑恤饑寒、帰者如市。十年、従大将察罕下淮甸。楨以功佩金符、授軍前行中書省左右司郎中。楨奏尋訪天下儒士、令所在優贍之。十三年、師囲寿春、天雨不止、楨言於察罕曰『頓師城下、暑雨疫作、将有不利。且城久拒命、破必屠之、則生霊何辜。請退舎数里、身往招之』、従之。楨遂単騎入敵塁、曉以利害、明日、与其将二人率衆来降。以功賜銀五千両。楨表言『襄陽乃呉・蜀之要衝、宋之喉襟、得之則可為他日取宋之基本』。定宗嘉其言。庚戌、賜虎符、授襄陽軍馬万戸。丙辰、憲宗命楨率師巡哨襄樊。戊午、帝親征、召楨同議事。秋九月、卒於合州、年五十九」

参考文献[編集]

  • 杉山正明『耶律楚材とその時代』白帝社、1996年
  • 元史』巻124列伝11李楨伝