斑師

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斑師(はんし、生没年不詳)は、の君主。襄公の孫で、父の名は不詳。公孫斑師とも呼ばれる。『春秋左氏伝』では般師と表記。

生涯[編集]

荘公3年(前478年)10月、が衛を攻撃し、従兄の荘公が出奔したため、晋は公孫斑師を立てて衛君とした。11月、荘公が鄄から衛に入ったため、斑師は逃亡した。卿の石圃(せきほ)が荘公を怨んでいる匠氏を味方につけて荘公を攻撃した。荘公は門を閉じて許しを請うたが、許してもらえず、北方の牆(かきね)を越えようとして墜ち、股(もも)の骨を折った。戎州[1]の人がこれを攻めた。太子疾と公子青が荘公を護衛しようとしたが戎州の人に殺された。荘公は戎州の己氏の家に逃げ込んだが、そこの夫人が荘公に怨みがあったため、荘公を殺した。そこで衛の人は斑師を呼び戻してふたたび衛君とした。12月、が衛を攻撃して斑師を捕らえ、代わりに公子起を立てたため、公子起が衛君(衛君起)となった。

脚注[編集]

  1. ^ 人の住む邑。現在の山東省曹県の東南に位置する。

参考資料[編集]

先代
荘公
君主
前478年
次代
衛君起