承快法親王

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承快法親王(しょうかいほうしんのう、天正19年2月14日[1]1591年4月7日) - 慶長14年8月20日[2][3]1609年9月18日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての皇族

後陽成天皇の第二皇子。母は大典侍局中山親子。御称号は二宮(にのみや)。通称七條殿七條宮。後陽成天皇にとっては覚深入道親王聖興女王に次いで3人目の、親子にとっては覚深に次いで2人目の子である。

慶長3年12月29日1599年1月25日)、仁和寺に入室し、同6年に三千院最胤入道親王について出家した。梶井門跡(三千院門跡)を継承した。

曲直瀬玄朔の『玄朔道三配剤録』に同12年閏4月頃の病状と調剤記録が残っている[4]。同14年8月20日薨去。享年19歳。同月25日に葬送があった[3]。法号は実性院。墓所は大原勝林院の北側にある梶井宮墓地[5]

脚注[編集]

  1. ^ 『晴豊記』天正十九年二月十四日条「十四日(中略)午下刻ニ大すけ殿若宮御たいしやう也(下略)」。「大すけ殿」は大典侍殿で、中山親子のこと、「若宮」が承快のことを指す。「たいしやう」は「胎生」又は「誕生」。
  2. ^ 『御湯殿上日記』慶長十四年八月廿日条「廿日。はるゝ。かち井殿御てし御所四時分ほとにすきまいらるゝ。御きもつふし也。」。「かちい殿御てし御所」が承快のことを指し、「すき」は「過ぎ」で死ぬことの婉曲表現。「きもつふし」は大いに驚くこと。
  3. ^ a b 『義演准后日記』慶長十四年八月廿五日条「廿五日、大雨、梶井新宮當今王子、去廿日御遠行不慮、昨日以使者大原ヘ弔申了、今日御葬送也、大雨如何、師主宮大原御座云々、」。「當今」は当今で後陽成天皇のこと、「遠行」は死ぬこと。
  4. ^ 『玄朔道三配剤録』慶長十二年丁未閏四月廿一日条「梶井殿新宮様 渇疾不食心中痛痞久不已、大便六旬不通、』和中湯、キ・莎・宿・兵・参・薏・桃・帰・朴・姜、十余日用之、而大便少通、食少通、」。(2020年5月31日閲覧)
  5. ^ 城とか陵墓とか「梶井宮上ノ墓地」(便宜上このブログではこのように呼称している旨、正式には梶井宮墓地である旨が記載されている、)、新陵墓探訪記「梶井宮墓地」など。(2020年5月31日閲覧)

出典[編集]