惇怡皇貴妃

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惇怡皇貴妃

惇怡皇貴妃(とんいこうきひ、1683年 - 1768年)は、康熙帝の側室。満洲鑲紅旗の出身。姓はグワルギャ(瓜爾佳)氏(Gūwalgiya hala)。

経歴[編集]

三品協領のグマン(祜満)の娘。康熙39年12月(西暦で1701年)、「和嬪」に封ぜられた。翌年(西暦で同年)、女子を1人産んだが夭逝した。康熙57年12月(西暦で1719年)、和妃に封ぜられた。

雍正元年(1723年)、「先帝への奉仕が最も謹慎であった」として、皇考貴妃に尊封された。しかしその当時、雍正帝と密接な関係にあるという噂が絶えなかった。雍正帝は、自ら書いた『大義覚迷録』で姦通について否定した。

乾隆帝の即位後、「皇祖温恵貴太妃」に尊封された。乾隆7年(1742年)、「皇祖温恵皇貴太妃」に尊封された。

乾隆33年(1768年)、薨去した。「惇怡」の諡号を贈られ、景陵の双妃園(愨恵皇貴妃との墓園)に葬られた。

息女[編集]

  • 皇十八女(1701年生没)

伝記資料[編集]

  • 『清聖祖実録』
  • 清史稿
  • 『和嬪冊文』
  • 『和妃冊文』
  • 『尊封佟貴妃皇貴妃、和妃貴妃上諭』康熙61年12月
  • 『温恵皇貴太妃冊文』