後の三房

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後の三房(のちのさんぼう)とは、鎌倉時代末期より南北朝時代にかけて、後醍醐天皇の側近として仕えた、北畠親房万里小路宣房吉田定房の3人を指す。

概要

平安時代白河天皇に仕えた名前に「」の字が付く3人の賢臣(藤原伊房大江匡房藤原為房)が、「(前の)三房」と称されたことに因んで命名された。史料上の初出は、『臥雲日件録文正元年(1466年7月12日条であり、ここに「本朝博物之士」として前後三房の名が挙げられている。

後醍醐天皇の信頼が厚い賢臣であった「後の三房」は、いずれも彼らの家柄では通常考えられない権大納言にまで昇進して、政務に携わった。後に親房は源氏長者に、定房は内大臣に昇る。

だが、信頼が厚い賢臣が直ちに後醍醐天皇の忠臣であったかと言えばやや疑問も残る。元弘の変で後醍醐天皇が島流しになり持明院統光厳天皇が在位していた時期には、3人とも光厳天皇に仕えている(ただし、既に出家していた親房の場合は嫡男顕家が出仕。だが、当時の公家社会では良く見られる現象でもあった)。また、親房が『神皇正統記』で後醍醐天皇の建武の新政を痛烈に批判している事や、定房が武力討幕に反対して元弘の変における天皇の挙兵計画を鎌倉幕府に密告した張本人であることは良く知られている。宣房に至っては息子・藤房が後醍醐天皇へ行った諫言が受け入れられずに出奔してしまうと、持明院統に仕え天皇と袂を分かっている。

「三房」と称された3人はそれぞれのやり方で後醍醐天皇に忠義を尽くそうとしたと考えられるが、個性的な天皇のやり方についていけなかったのもまた事実のようである。それでも、親房と定房は最終的に吉野朝廷の一員としてその生涯を終えている。