張氏容
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孝武皇后 | |
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各種表記 | |
漢字・チュノム: | 孝武皇后 |
北部発音: | ヒエウ・ヴー・ホアン・ハウ |
日本語読み: | こうぶこうごう |
孝武皇后(こうぶこうごう、ヒエウ・ヴー・ホアン・ハウ、ベトナム語:Hiếu Vũ Hoàng Hậu / 孝武皇后、永盛8年3月(1712年4月) - 永佑2年10月6日(1736年11月8日))は、広南国主阮福濶の正室。名は張氏容(ベトナム語:Trương Thị Dung / 張氏容)。または張氏除(ベトナム語:Trương Thị Trừ / 張氏除)、張氏鋧(ベトナム語:Trương Thị Hiện / 張氏鋧)ともいう。
生涯
[編集]掌奇張文創の娘として清華貴県(現在のハチュン県)に生まれる。母は宋氏。初め潛邸に侍し、続いて右宮嬪に封じられ、阮福暲・阮福㫻・阮福昱・阮氏玉瑤の3男1女を儲けた[1]。永佑2年10月6日(1736年11月8日)に25歳で死去。修儀夫人(ベトナム語:Tu Nghi Phu Nhân / 修儀夫人)の号を贈られたが、後に温誠太妃(ベトナム語:Ôn Thành Thái Phi / 溫誠太妃)と追贈され、富春の永泰陵(現在のトゥイスアン坊)に葬られた[1]。
嘉隆5年6月8日(1806年7月23日)、孫の嘉隆帝によって温誠徽懿荘慈毓聖孝武皇后(ベトナム語:Ôn Thành Huy Ý Trang Từ Dục Thánh Hiếu Vũ Hoàng Hậu / 溫誠徽懿莊慈毓聖孝武皇后)と追尊され、その神体は太祖廟左四室に安置された[1]。