弓削耳高

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弓削 耳高(ゆげ の みみたか、生没年不詳)は、奈良時代後期の官人のち宿禰位階従五位下

経歴[編集]

称徳朝天平宝字8年(764年藤原仲麻呂の乱後の叙位で従五位下に叙せられる。その後、神護景雲4年(770年)耳高を含む一族の38人が連から宿禰に改姓するが、「未だ歳月を経ずして、皆、本の姓に復す」と記されており、ほどなくして「連」姓に戻されたとみられる[1]。これは、道鏡の失脚と大いに関係があるものと見られるが[2]宝亀6年(775年)に、かつて弓削宿禰を弓削御清朝臣に、弓削連を弓削宿禰とした改姓について、いずれも本姓に戻されており[3]、この時に耳高も連姓に戻されたか[2]

官歴[編集]

続日本紀』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『続日本紀』神護景雲4年4月11日条
  2. ^ a b 岩波書店『続日本紀』5補注30-33
  3. ^ 『続日本紀』宝亀6年2月8日条

参考文献[編集]