左右田孫兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Bariston (会話 | 投稿記録) による 2022年8月20日 (土) 12:18個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

左右田孫兵衛の墓がある正覚寺(愛知県西尾市

左右田 孫兵衛(そうだ まごべえ、寛永13年(1636年) - 享保8年2月29日1723年4月4日))は、江戸時代前期の武士高家吉良家家老。名は重次(しげつぎ)という。

米沢藩4代藩主上杉綱憲の次男・吉良義周が吉良家を相続した際に義周付きの家老となる。100石取り。赤穂浪士吉良邸討ち入りの際には、子と見られる左右田源八郎(中小姓・7両)が討ち死にしたが、孫兵衛は生き残ったため、同じく家老の斎藤宮内とともに長屋の壁を切り破って逃げたという不名誉な噂がたった。なお、左右田は討ち入り後の12月16日に吉良義央の首級が納められた泉岳寺から吉良の首を返還され受け取っている。同僚家老斎藤宮内連名の文書(覚=受領書)が泉岳寺に所蔵されている。

吉良家が断絶となった後も山吉盛侍とともに義周に従い、配流先の諏訪藩高島城へ供した。義周が死去した後は三河国吉良へ戻り余生を過ごした。

享保8年(1723年)2月29日に死去。享年88。墓は吉良吉田の正覚寺にある。法名釈順知。