呂羅漢

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呂 羅漢(りょ らかん、生年不詳 - 482年)は、北魏軍人本貫東平郡寿張県

経歴[編集]

呂温の子として生まれた。弱冠にして武の才能で名を知られた。父が秦州司馬として出向すると、羅漢も随従した。439年太延5年)、仇池楊難当が数万の兵を率いて上邽に進攻すると、秦州の民も多くこれに呼応した。鎮将の元意頭(元勿頭)は羅漢の弓射を得意とすることを知って、ともに西城楼に登り、羅漢に楊難当の隊将や兵23人を射させると、羅漢は弓弦に応じて敵を斃した。羅漢は出戦を上申して、元意頭に容れられ、1000騎あまりを率いて出戦した。羅漢は楊難当の軍に突撃し、楊難当の側近の隊騎8人を殺した。楊難当が仇池に撤退し、元意頭が太武帝に報告すると、羅漢は帝に召されて羽林中郎となった。

上邽の休官の呂豊や屠各の王飛廉(王飛鹿)ら8000家あまりが反乱を起こすと、羅漢は1000騎を率いて反乱を討ち、かれらを捕らえた。450年太平真君11年)、太武帝の南征に従い、懸瓠の攻撃に参加し、琅邪王司馬楚之とともに招慰にあたって、9000戸あまりを降伏させた。盱眙に進軍すると、軍を連破して、顧儼・李観之らを捕らえた。功績により羽林中郎・幢将に転じ、烏程子の爵位を受け、建威将軍の号を加えられた。452年承平元年)、南安王拓跋余が即位すると、羅漢は宿衛をつかさどった。同年(興安元年)、文成帝の即位にあたって、羅漢は擁立の功績があった。幢将のまま少卿に転じ、野王侯の爵位に進み、龍驤将軍の号を加えられた。司衛監に任じられ、散騎常侍・殿中尚書に転じ、山陽公の爵位に進み、鎮西将軍の号を加えられた。470年皇興4年)、柔然の侵攻があり、献文帝が柔然を討つと、羅漢は南平公拓跋目辰とともに都督中外軍事となった。

後に鎮西将軍・秦益二州刺史として出向した。473年延興3年)、武都氐の楊文度が反乱を起こし、駱谷を攻撃すると、鎮将の呉保元は敗走して百頃に登り、羅漢の救援を求めた。羅漢は長孫観の下で兵を率いて武都氐を撃ち、その渠帥を斬って撃退した。

後に涇州の張羌郎が隴東の民衆を扇動して、1000人あまりを集めて反乱を起こすと、羅漢は1000の兵を率いて張羌郎を討ち捕らえた。ときに仇池の氐や羌の反抗が続き、蛩廉・符祈らは南朝宋の官爵や鉄券を受けていた。略陽公伏阿奴が都将となり、羅漢とともに討伐に向かうと、蛩廉・符祈らを生け捕りにした。

羅漢は平城に召還されて内都大官に任じられ、人々の訴えを聴き、刑事を裁判して、その判決の多くは人情にかなったものであった。482年太和6年)、在官のまま死去した。は荘公といった。

子女[編集]

  • 呂興祖(? - 500年、長子、山陽公、後に山陽侯)
  • 呂伯慶(中散、咸陽王元禧の下で郎中令)
  • 呂世興(校書郎)

伝記資料[編集]