吉田成方院

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吉田 成方院(よしだ せいほういん、生没年未詳)は、江戸時代後期の幕府医官。名は元寿、号は浄庵。徳川家斉晩年の主治医。

吉田家は鎌倉時代末期より続くと言われる名門医家で、法印に叙せられた後は「盛方院」と名乗る慣例であったが、将軍家斉の息女盛姫の「盛」の字を避けて、成方院と称した。天保3年(1832年)4月12日、文姫付奥詰医師より西の丸奥医師に転じ、のち家斉の御匙(侍医長)となり、天保7年(1836年)12月16日、法印に叙任。天保12年(1841年)閏正月30日、大御所家斉の死に際し臨終の瞬間を見逃すという失態を演じたために、(薨去の百ケ日を待って)5月15日付で以下の通り罰せられた。成方院は奥医師解任、隠居、謹慎。同じく西の丸奥医師の職にあった息子・頼庵も連座し、奥医師解任、小普請入り、家禄(世襲禄)も100俵を削られる。同時に浜町矢の倉の屋敷も収公された(これらは医師に対する処分としてはかなり重いものである)。

なお、吉田家累代の墓所は芝の金地院である。