亀ヶ森光広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

亀ヶ森 光広(かめがもり みつひろ)は、戦国時代武将稗貫氏の家臣。陸奥国稗貫郡亀ヶ森城主。図書と称した[1]

略歴[編集]

亀ヶ森氏は稗貫郡の国人で、稗貫氏の一族であるという[2]天文9年(1540年)、八十沢氏に代わって亀ヶ森城主となった[1]

弘治3年(1557年)3月、光広は稗貫氏に背いた。これに対し稗貫為嗣は家臣の槻木下総守光治矢沢右近春眞に命じて光広を討つための軍を出すが、光広はこれをよく防ぎ、逆に光治を討ち取って勝利を収めた[3]

その後、亀ヶ森城の最後の城主である亀ヶ森玄蕃家衡天正18年(1590年)、稗貫氏の没落とともに所領を没収されるが、当時絶世の美女と謳われ「稗貫御前」と呼ぼれていた於三の方(稗貫広忠の夫人)を南部信直のもとに輿入れさせ、稗貫氏の再興を図った。しかし信直の死によって計画は頓挫するが、家衡は南部氏に仕えて旧領700石を与えられた[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b 阿部猛西村圭子『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月10日、260頁。ISBN 4404017529 
  2. ^ 森岡浩『戦国大名家辞典』東京堂出版、2013年12月30日、191-192頁。ISBN 9784490108422 
  3. ^ 亀ヶ森城”. 花巻市. 2022年10月22日閲覧。
  4. ^ 亀ヶ森玄蕃”. 花巻市. 2022年10月22日閲覧。