モロガ公国

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モロガ公国ロシア語: Моложское княжество)は、14 - 15世紀にかけて存在した、ルーシの諸公国の一つである。モロガ川流域を所領とし、首都はモロガ(ru)という都市であった。現在は、首都を含む公国領の大部分がルィビンスク貯水湖(ru)の湖底に沈んでいる。

歴史[編集]

モロガ公国は、1321年にヤロスラヴリ公ダヴィドが死亡したのちに、長男のヴァシリー(ru)ヤロスラヴリ公国を継承し、次男のミハイルが分領公国として分離・継承したことで成立した。その領域はウスチュジナを含むモロガ川流域、またベラヤ・ユガ川からユホチ川までであった[1]

首都モロガは水路の便に恵まれた都市であった。また、ミハイルの治世期には、モロガ川河口から約50kmの位置にあった都市ホロピー・ゴロドク(ru)で、国際的な商取引(モロガのヤルマルカ(ru))が行われていた。ミハイル政権の終焉は明らかでなく(おそらく1362年と推定される)、フョードル、イヴァン、レフという3人の子の名が記されるのみである。

13世紀後半のモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイと共に、モロガ公がジョチ・ウルスのハン・ムリード(ru)のもとへ出向した記録がある[2]。1380年、モロガ公国軍はモスクワ大公国に助成し、クリコヴォの戦いに右翼の一軍として参加した。1386年にはノヴゴロドでの叛乱を鎮めるための遠征に参加した。また、1397年にはモロガ公フョードルの娘がトヴェリ大公アレクサンドルに嫁いでいる[3]。フョードルは1408年に死亡した。

フョードルの死後、その子たちの分割相続によってシチ公国プロゾロフ公国が分離した。モロガ公国は長男のドミトリー、その子ピョートルへと継承されていった。モロガ公国は、最終的にはモスクワ大公イヴァン3世に従属して消滅した。

出典[編集]

  1. ^ Карамзин. История. т. V, прим. 33, 120.
  2. ^ Прод. Нест. лет., стр. 99; Карамз. т. VI, гл. 12.
  3. ^ Никоновская лет. ч. IV, стр. 269; Карамз. т. V, прим. 254.

参考文献[編集]

  • Головщиков К. Д. Город Молога и его историческое прошлое. Ярославль: П. М. Подосенов, 1889. — 73 с.
  • Экземплярский А. В. Ярославские князья // Русский биографический словарь: В 25 т. / под наблюдением А. А. Половцова. 1896—1918.