マニウス・ポンポニウス・マト
マニウス・ポンポニウス・マト M'. Pomponius M'.f. M'.n. Matho | |
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出生 | 不明 |
死没 | 紀元前211年 |
出身階級 | プレブス |
氏族 | ポンポニウス氏族 |
官職 |
執政官(紀元前233年) 騎兵長官(紀元前217年) 法務官(紀元前216年) 前法務官(紀元前215年、紀元前214年?) 神祇官( - 紀元前211年) |
指揮した戦争 | 第二次ポエニ戦争 |
マニウス・ポンポニウス・マト(Manius Pomponius Matho)は共和政ローマのプレブス(平民)出身の政治家・軍人。紀元前233年に執政官(コンスル)を務めた。第二次ポエニ戦争でハンニバルに勝利したスキピオ・アフリカヌスの母方の祖父に当たる。
経歴
マトは紀元前233年に執政官に就任。同僚執政官はパトリキ(貴族)出身のクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコススであった。
執政官在職中にサルディニアに出征し、その勝利によって同年に凱旋式を実施している。しかしながら、その勝利は決定的なものではなく、紀元前231年に兄弟であるマルクス・ポンポニウス・マトが再度サルディニアで戦っている。
紀元前217年には独裁官(ディクタトル)ルキウス・ウェトゥリウス・ピロのマギステル・エクィトゥム(副官)を務め、翌紀元前216年には法務官(プラエトル)に就任した。すでに第二次ポエニ戦争が勃発しており、戦争の経験がある人物を高位の官職につける必要があったと思われる。慣習で担当戦線はくじ引きで決められることになっていたが、その結果マトは首都プラエトル(プラエトル・ウルバヌス)となり、軍を率いることはなかった。同年カンナエの戦いでローマ軍は大敗したが、マトと同僚のプラエトル・ウルバヌスはクリア・オスティリア(元老院議事堂)に元老院議員を招集し、次に取るべき手段を議論した[1][2]。プラエトルの任期が終了した翌年の紀元前215年、マトはプロプラエトル(前法務官)として、ガリア・キサルピナに赴任した[3]。翌紀元前214年もガリアに留まっている。ティトゥス・リウィウスは、この年にはガリアには兵は送られなかったとする[4]。マトは紀元前211年に死去したが、そのとき彼は神祇官(ポンティフェクス)の一人であった[5]。マトの後任はガイウス・リウィウス・サリナトルであった[6]。
親族
マトと紀元前231年の執政官マルクス・ポンポニウス・マトは兄弟である。マルクスは紀元前204年に死去している。二人のどちらか、おそらくはマルクスがプレブス・アエディリス(平民按察官)のマルクス・ポンポニウス・マトの父である。このマルクスは親戚であるスキピオ・アフリカヌスにたいするロクリス人の訴訟を調査するよう命令されている。
マトの娘のポンポニアは紀元前211年の執政官であるプブリウス・コルネリウス・スキピオと結婚した。この二人の間の子供がスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)である。
ウィリアム・スミスによれば、キケロの説として、「Matho」の発音は「h」を抜いて発音されるとしており、しばしば「Mato」とも綴られている。
脚注
- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、xxii. 33, 35, 55
- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、xxiii. 20, 24
- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、xxiv. 10
- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、xxiii. 25
- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、xxvi. 23
- ^ Smith, William (1870). Dictionary of Greek and Roman biography and mythology. 3. Boston, Little. p. 695
参考資料
- ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
- この記事には現在パブリックドメインである次の出版物からのテキストが含まれている: Smith, William, ed. (1870). "Matho, Pomponius (1)". Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology (英語). Vol. 2. p. 972.
関連項目
公職 | ||
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先代 ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス スプリウス・カルウィリウス・マクシムス・ルガ |
執政官 同僚:クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコスス 紀元前233年 |
次代 マルクス・アエミリウス・レピドゥス マルクス・プブリキウス・マッレオルス |