ヘンリー・フレデリック・ステュアート

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ヘンリー・フレデリック・スチュアートHenry Frederick Stuart, Prince of Wales, 1594年2月19日 - 1612年11月6日)は、ステュアート朝イングランドスコットランド王太子プリンス・オブ・ウェールズ。イングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世(スコットランド王としては同6世)の長男。母はジェームズ1世王妃アン・オブ・デンマークチャールズ1世の実兄にあたる。

生涯

当時スコットランド王であったジェームズ6世の長男としてスターリング城で生まれた。そのため、ヘンリー・オブ・スターリング(Henry of Stirling)とも呼ばれる。当初ロスシー公爵(スコットランド王太子)が与えられていたが、1603年に父がイングランド国王を兼ねると、重ねてコーンウォール公爵(イングランド王太子)も与えられ、1610年にはプリンス・オブ・ウェールズの称号が与えられた。 1605年オックスフォード大学のモードリン・カレッジに入学するが、チフスに倒れて18歳の若さで死亡する。遺体はウェストミンスター寺院に埋葬された。美男子で明るい性格であったと伝えられ、父や弟と違って次期国王としてイングランドを理解する事に務めていた。このため、「彼が王位を継承していたならば、その後の議会との全面衝突、一連のブリテン革命の発生を回避できたのでは?」とする意見もある。