ブラルキ

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ブラルキ(モンゴル語: Buralγi,? - ?)とは、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。『元史』における漢字表記は孛蘭奚(bólánxī)。

概要[編集]

ブラルキはコンギラト部の出身で、応昌に住まう一族の出であった。ブラルキの祖父モンケは(忙哥)はチンギス・カンのケシクテイ(親衛隊)に所属していた人物で、父の律実は第2代皇帝オゴデイに仕えて千人隊長、斉王府司馬に任ぜられていた。律実は第二次対金戦争においてトゥルイ率いる右翼軍に属し功績を挙げたが、早くに病で亡くなってしまった。

ブラルキは幼い頃から日中は弓馬を、夜は読書をして研鑽を積み、父の地位を継いで斉王府司馬となった。ナヤン・カダアンの乱では馬を疾駆させて敵陣に切り込み、敵軍の旗を切り倒し、遠くからその奮戦を眺めていたクビライより賞賛されたという。ナヤンの兵が敗走した後、報告に戻ったブラルキをクビライは大いに称え、宣威将軍・信州路ダルガチの職を授けた。ブラルキはモンゴルに降ったばかりの信州路をよく治めたが、病のため33歳の若さで急逝してしまった。息子には脱穎溥化がおり、監察御史・河南廉訪副使・郴州路ダルガチを歴任した。 [1]

脚注[編集]

  1. ^ 元史』巻133列伝20孛蘭奚伝,「孛蘭奚、雍吉烈氏、世居応昌。祖忙哥、以后族備太祖宿衛。父律実、状貌魁偉、有謀、善騎射。太宗嘗問以軍旅之事、応対称旨、即命為千戸。尋以為斉王府司馬。後従睿宗伐金有功、詔還宿衛、以疾卒。孛蘭奚英邁有父風、幼孤、能自刻厲如成人、暇日習弓馬、夜則読書。其母嘗訓之曰『汝父忠勇絶人、天不假年、汝能自立、則汝父歿無憾矣』。孛蘭奚由是感激、期以成父之志。従軍有功、襲父官、為斉王司馬。世祖親征乃顔、以斉王兵従、兵始交、孛蘭奚躍馬陥陣、斬其旗、所嚮披靡、世祖遙望見壮之。有頃、乃顔兵遁走、孛蘭奚馳帰以捷聞。世祖大悦、労之曰『無忝汝父矣』。賜黄金五十両・金織文二匹、授宣威将軍・信州路達魯花赤。時江南初附、布宣上意、与民更始。期年、郡中大治、部使者以聞、帝奨嘆久之、即遣使賜以上尊。俄以疾卒、年三十三。贈河間路達魯花赤、追封范陽郡侯。子脱穎溥化、歴監察御史・河南廉訪副使・郴州路達魯花赤」

参考文献[編集]

  • 元史』巻133列伝20孛蘭奚伝