ノート:ジョン・マキム

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

「逝去」について:プロジェクトの合意文書に基き専門用語として残したものです[編集]


    • ご趣旨は理解しましたが、賛同できません。まず、最も重要なのは「百科事典で取り上げるのにふさわしい事物が、日本語としてすんなり理解できる百科事典的表現で説明されていること」(A)です。私は表現が百科事典的ではないと指摘しているので、それへの批判としては、私の編集が百科事典的でないか、Kinno Angelさんの編集でも百科事典的であるという論点になるはずですが、上記のご主張は違いますね。
    • また、数あるガイドラインはすべて、Aに矛盾するものではないはずです。Kinno Angelさんご指摘のガイドラインは、要約すると宗教的事項についてはその宗派の用語を使いましょうということだと思います。これはもっともな指針です。しかし、Kinno Angelさんの編集は、死という一般的事項に対する表現にまで専門用語を使うことを強制するものです。これは突き詰めるとAと矛盾する事態が発生しますので、Kinno Angelさんのガイドラインの理解は行き過ぎた解釈だと思います。Kinno Angelさんが挙げた例に即せば、「逝去」や「永眠」は普通名詞なので(百科事典的かどうかはともかく)日本語としてすんなり理解できますが、「帰天」はそうは行きません。また、「転生」や(天に迎えられるという意味で)「仰天」なんていう表現を使う宗教があった場合には、Aがまったく満たされなくなります。結論を述べます。上記ガイドラインは一般的事項に関する言葉にまで適用することを想定しておらず、死という一般的事項に対する、説明文中の表現にまで専門用語の適用を強制するのは間違いだと思います。
    • それと、そもそもですが、「逝去」は死を表す聖公会の専門用語なのでしょうか? お示しいただいたリンク先をいくつか見ました。慣習的に用いられていることは分かりますが、専門用語なのかどうかまでは確認できませんでした。また、こちらの方が重要ですが、仮に専門用語だとしても、一般の「死」を表現するものというより、敬意をこめて表現するものだとしか思えませんでした。
    • 以上の理由から、Kinno Angelさんのご主張には同意できません。取り合えず、逝去でも死去でもない表現に変えておきます。--Baru会話2015年5月16日 (土) 11:26 (UTC)[返信]

    • この議論を契機に、いろいろなキリスト教関連記事を読みました。一般の人がすんなり理解できるという観点が欠如した記事が相当数ありますね。不必要なところ(「専門用語」を使わなくとも説明できるところ)にも安易に「専門用語」が使われていて、理解が難しくなっている事例が多いです。結構大きな問題のような気がします。--Baru会話2015年5月17日 (日) 05:40 (UTC)[返信]

  • (天に迎えられるという意味で)「仰天」なんていう表現を使う宗教があった場合には」ありもしない仮定は無意味です。
  • 正確性の要請というのを軽視され過ぎではありませんか?
  • そもそもですが、「逝去」は死を表す聖公会の専門用語なのでしょうか?」聖公会では聖公会祈祷書が最も大事な出典の一つに数えられますが、日本聖公会発行の祈祷書に「逝去者記念の式」があります。
  • 仮に専門用語だとしても、一般の「死」を表現するものというより、敬意をこめて表現するものだとしか思えませんでした。」端的に申しましてBaruさんの偏見でしかありません。
  • 取り合えず、逝去でも死去でもない表現に変えておきます。」要するに、「聖公会が使って居る表現は罷りならぬ」という偏見の表明でしょう。申し訳ありませんが合意文書違反として差し戻しさせて頂きます。
  • 一般の人がすんなり理解できるという観点が欠如した記事が相当数ありますね。」そもそも仏教関連記事でも物理関連記事でも同様の問題があります。
    • 不必要なところ(「専門用語」を使わなくとも説明できるところ)にも安易に「専門用語」が使われていて、理解が難しくなっている事例が多いです。」正直申して、堅信を「儀式」と安易にお考えになる程度(敢えてそう申し上げますが)の方に、どうして「専門用語を使わなくとも説明出来る」などと安易に判断できるのでしょうか?
  • 何と言うか、jawpでいつも思うのですが、科学関連記事ならばそんな事は言われないのに、宗教関連記事だけは「専門用語を使うな」「大した専門知識は要らない」という姿勢で議論を仕掛けられる方が少なからずいらっしゃいますね。
  • なお、「ノート:堅信」でのBaruさんによる御指摘は、一点除き御尤もと思いました。確かに悪文です。--Kinno Angel会話2015年5月17日 (日) 13:53 (UTC)[返信]

    • まず、質問ですが、「百科事典で取り上げるのにふさわしい事物が、日本語としてすんなり理解できる百科事典的表現で説明されていること」(A)という点には同意していただけるのでしょうか? 次に、正確性の要請とのことですが、「逝去」や」「帰天」を「死去」に変えることで、何の正確性が失われているのでしょうか? ここでの正確性は、死亡したことについての百科事典的説明としての正確性を言っています。 また、「召天」、「帰天」は何の説明もなしに、一般の人が確信を持って死亡と同義であると分かるのですか? 私にはそんな確信はありませんし、実際「帰天」は最初見たとき、調べないと死去のことだと確信を持てませんでした。
    • 最後の質問です。すでに指摘してあることですが応答がありませんので、今度は質問の形にします。死という一般的事項を、「死去」「死亡」などの普通名詞を使わずに、特定教派の固有の用語で記述する必要性はなんですか? ウィキペディアは何ではないかの「学術雑誌ではありません」の項に、「ウィキペディアの記事を、読者がその主題の分野に精通しているという前提で書いてはなりません。」「その分野のより専門的な用語や概念に対してはウィキリンクを提供すべきですが、記事そのものは、読者がリンク先を見ず、文章から意味を推察しようとすることを前提として書くべきです。」とあります。これは冒頭の説明文に対する注意ですが、本文であってもその精神は尊重されるべきです。Aはこのことを私なりに表現したものです。この精神を損なってまで、普通名詞ですむところを、わざわざ固有用語を使わなければならない理由は何ですか? 本気で理解できませんので、是非ご説明ください。
    • 次に、『「聖公会が使って居る表現は罷りならぬ」という偏見の表明』とか、単なる「専門用語を使うな」という姿勢だと、決め付けておられますが、そんなことは微塵も思っておりません。もっぱら、Aの観点からの指摘と修正です。この誤解は、変ですよ。対話を続ける気がかなり削がれましたし、キリスト教系の記事への関心ももう無くなりました。いっぱい不備を見つけましたが、もう指摘しません。
    • それと、本論である、Aに沿っていないという指摘には一向に回答せずに、問題点を分かりやすくしようとして例示した「仰天」や、堅信の書き換え例だけに反応しておられますが、是非本筋に注目していただきたく。上で申し上げた苦情の件については私の書き方が悪かった点もあるかもしれませんが、本筋に答えない理由にはなりません。
    • 堅信の書き換え例は、履歴などを参考にして、今の記述の問題点が明確に浮きだされて、しかも書き換えの方向性が感じ取れるように作ったもので、内容が正確かどうかは考えていません。だから、本文の修正は行っていません。正確かどうかという観点で作っていませんし、過去から連綿と続いた悪文を基に、現記述の問題点の分かりやすさを優先して作った文章なのですから。したがって、正確でないという指摘は当たり前ですし、そんなことは私にも分かっています。そんなことより、あなた自身がAの精神に背いた、専門的観点に堕した悪文を作り、しかもそのことに今まで気づかなかったという事実をもっと注視してください。はっきり書いて申し訳ありませんが、正直なところ、あなたのこの問題点が今の私との議論でも出ているように思いますよ。
    • 「どうして「専門用語を使わなくとも説明出来る」などと安易に判断できるのでしょうか?」とのことですが、判断できます。キリスト教については知識は十分ではありませんが、そんな知識がなくとも前記の判断ができるところは多数あります。今回の問題もその一例です。帰天なんて使わなくとも、死亡した事実は普通名詞で十分説明できます。堅信もその一例でしょう。もう指摘しないと決めたので、他の事例は挙げませんが。--Baru会話2015年5月17日 (日) 15:46 (UTC)[返信]

一つの反論で足りると思います。
>まず、質問ですが、「百科事典で取り上げるのにふさわしい事物が、日本語としてすんなり理解できる百科事典的表現で説明されていること」(A)という点には同意していただけるのでしょうか?
そもそも「逝去」が「日本語としてすんなり理解できる百科事典的表現ではない」とお考えの時点で「????」としか思っておりません。無意味な御指摘と考えます。--Kinno Angel会話2015年5月17日 (日) 16:12 (UTC)[返信]
もう一つ言っておきましょう(もうキリスト教関連記事には携わらないと明言されておいでのようですが)。
>帰天なんて使わなくとも、死亡した事実は普通名詞で十分説明できます。
説明出来ない宗教的概念だからわざわざ用語が存在するわけです。信者達も「用語を増やして難解にしてやれ」という意地悪をしている訳ではありません。
まあ私も「信者であったスポーツ選手とかにも宗教用語を使え」とまで無茶は申しませんが、聖職者の記事に宗教用語があるのは寧ろ自然だとしか思えませんね。仏教記事で「入滅」、シーア派記事で「ガイバ」とあったら、まあそうだろうなと。「死亡と書け」「行方不明と書け」とか無茶は言うべきでは無いな、としか思えないですね。--Kinno Angel会話2015年5月17日 (日) 16:35 (UTC)[返信]

  • 私の説明不足もありますが、あいかわらず、本論に目を向けていただいていないようです。それと、キリスト教関連記事には関わりませんが、本件は別です。徹底的に仕様とはもう思っていませんが、ある程度理解が進むまでは議論を続けたいと思っています。いただいた返答については、後日応答します。--Baru会話2015年5月17日 (日) 16:42 (UTC)[返信]

「質問に答えて居ない」「もうキリスト教関連記事には関わりません」
答える
「本論に目を向けて居ない」「本件は別です」←今ここ
宜しいですか。私は答えました。否定文では理解出来ないようでいらっしゃいますので、肯定文で書きましょう。
「逝去」は日本語としてすんなり理解できる百科事典的表現です。かつ、聖公会祈祷書にある公式な出典付表現です。
それにしても「逝去」が「すんなり理解できる表現では無い」と仰る方を初めてみました。新奇ですね。--Kinno Angel会話2015年5月17日 (日) 16:47 (UTC)[返信]

「逝去」が「すんなり理解できる表現では無い」と仰る方を初めてみました 冷静になってください。そんなことを申し上げていませんし、私の発言を呼んでいただければその点を否定してることは分かると思います。逝去が尊敬語であり百科事典的ではないと申し上げているのです。実はこの点を詳しく書いたのですが、Kinno Angelさんの編集とかち合って、書き込めませんでした。詳細は、今日はもう無理なので、後日ということでお願いします。--Baru会話2015年5月17日 (日) 17:14 (UTC)[返信]


そんなことを申し上げていません
?仰っていますが。はっきりと。
逝去が尊敬語であり百科事典的ではないと申し上げているのです。
それも読みました。「単なる敬意表現では無い」とお答えした筈です。
それを言えば「入滅」も「ガイバ」も、尊敬要素抜きには語れないでしょう。
「入滅」「ガイバ」はOKで、「逝去」はNGとするのは、全宗教における中立的観点を満たせません。
そもそも「先生」「師」「神父」という「敬称」は、抜いても何とかならなくもない「敬語」ですが、「死去」については宗教的理解がどんな用語を使っても反映されてしまう。「何でも良いじゃん」と思う事は出典を無視する「独自研究」です。--Kinno Angel会話2015年5月17日 (日) 17:21 (UTC)[返信]

「入滅」「ガイバ」はOKで、「逝去」はNGとする」 そんなことは書いていませんし、思ってもいません。もう何度目の苦情になるか分かりませんが、人の思ってもいないことを勝手に忖度して、誤解を重ねるというのはおやめください。また、「「ガイバ」はOK」は、私の論旨を理解していないことが丸分かりになる発言です。もう少し落ち着いて人の発言を読んでください。それから、「「逝去」が「すんなり理解できる表現では無い」と仰る方を初めてみました」 に関して、私の過去の発言を引用しておきます。

「逝去」や「永眠」は普通名詞なので(百科事典的かどうかはともかく)日本語としてすんなり理解できますが、「帰天」はそうは行きません。

整理すると、「帰天」「召天」「ガイバ」は普通の人がすんなり理解できないのでNG、「逝去」は普通の人が見たら尊敬語の普通名詞と理解するので百科事典的ではなくNG、「入滅」は普通名詞なのですんなり理解できるかもしれないが、敬意を表すものかどうかがわからないので、OKともNGとも判断できない、となります。「永眠」は本来は両方の基準においてOKです。が、ちょっといろいろ微妙だなと思っておりまして、その点は後日説明します。

答えいただいていないので、少し修正して再度質問します。「「帰天」「召天」「ガイバ」は何の説明もなしに、一般の人が確信を持って死亡と同義であると分かるのですか?

それと、「「逝去」「帰天」「召天」「ガイバ」を「死去」に変えることで、何の百科事典的正確性が失われているのでしょうか?」 「百科事典において、死という、普通名詞で説明できる一般的事項を、普通名詞を使わずに特定教派の固有の用語で記述する必要性はなんですか?

これらにもお答えいただけると助かります。「説明出来ない宗教的概念だからわざわざ用語が存在する」とのことですが、死亡したという事実を記述するのに、どういう宗教的概念が必要なのでしょうか? 説明できないとのことですが、試みていただけないでしょうか?

今かけなかったことを後日説明しますが、最後に、私の「もうキリスト教関連記事には関わりません」が正確ではなかったので、「もう新しくキリスト教関連記事には関わりません」に修正します。関わった記事については、ある程度決着がつくまで関わります。正確な表現でなくて失礼しました。--Baru会話2015年5月17日 (日) 23:54 (UTC)[返信]


「入滅」「ガイバ」はOKで、「逝去」はNGとする」そんなことは書いていませんし、思ってもいません。もう何度目の苦情になるか分かりませんが、人の思ってもいないことを勝手に忖度して、誤解を重ねるというのはおやめください。

たび重なる印象操作はお止め下さい。これについてはBaruさんの御言葉などとは一言も言っておりません。むしろ「私の言動」としてです。私が「入滅」「ガイバ」を放置し、「逝去」が消されるのを放置する、事は出来ない、という意味です。御理解頂けましたか。

もう少し落ち着いて人の発言を読んでください。

その御言葉、そっくりお返しします。

「百科事典で取り上げるのにふさわしい事物が、日本語としてすんなり理解できる百科事典的表現で説明されていること」(A)という点には同意していただけるのでしょうか?

貴方はこう仰っているのですよね?つまりは「逝去」は「日本語としてすんなり理解できる百科事典的表現で説明されていない」が論旨ですよね?色々ごちゃごちゃ仰って論旨を分かり難くしているのは貴方ですよ。

単なる「専門用語を使うな」という姿勢だと、決め付けておられますが、そんなことは微塵も思っておりません。もっぱら、Aの観点からの指摘と修正です。

「帰天」「召天」「ガイバ」は普通の人がすんなり理解できないのでNG、

やっぱり「普通の人がすんなり理解できない専門用語を使うな」ですよね。御自分の仰る事を忘れない様にして下さい。

「入滅」は普通名詞なのですんなり理解できるかもしれないが

そもそも貴方は「普通名詞」という意味を御理解して居ないのでは?と今感じました。「普通名詞」とは何かを辞書で引いて下さい。「フツーな名詞」ではないのですよ。「帰天」「召天」「逝去」「ガイバ」も立派に普通名詞です。

「逝去」「帰天」「召天」「ガイバ」を「死去」に変えることで、何の百科事典的正確性が失われているのでしょうか?百科事典において、死という、普通名詞で説明できる一般的事項を、普通名詞を使わずに特定教派の固有の用語で記述する必要性はなんですか?

…そもそもですね、10分で良いですから、「ググってから異議を唱える」位して頂けませんか?

  • シーア派の「ガイバ」では「死んでいない」事を表すのです。ですから「死去」と書いたら、その時点で中立的観点が失われます。
  • 入滅は死去を表す普通名詞(??)だからOK、と仰るようですが、入滅も単なる「死去」ではありません。解脱を含む包括的概念です。
  • 「帰天・召天・永眠・逝去」については、キリスト教では「人の肉体と霊魂の分離は、イエス・キリストの復活以後、本当の意味での『死』ではなくなった」という理解が背景にあります。だから「死去」「死」という表現は、出来る限り避けられるのです。

それを「お前はもう死んでいる」と強引に表現する必要性がそれこそ私には分かりません。しかもプロジェクト合意文書が仮に無かった場合、1万歩譲って、「帰天・召天は分かり難い」と言われる余地があるにしても、「逝去がすんなり理解できない」(「すんなり理解出来ないとは言って無い」という事ですが、それ以外に(A)の問題点に抵触する要素が、これまで述べた通りありませんので)とはどういう事ですか?

単に「敬意表現を使うなかれ」「キリスト教用語を使う勿れ」以外に理由は無いでしょう。

私の「もうキリスト教関連記事には関わりません」が正確ではなかったので、「もう新しくキリスト教関連記事には関わりません」に修正します。

単純な心変わりを「正確では無かった」などと言い訳しないで下さい。

以上です。御理解頂けましたか?--Kinno Angel会話) 2015年5月18日 (月) 01:31 (UTC)段落等微修正--Kinno Angel会話2015年5月18日 (月) 01:38 (UTC)[返信]