カーヴルト・ベグ

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カーヴルト・ベグ(? - 1074年)は、ケルマーン・セルジューク朝の始祖(在位:1041年 - 1074年)。

生涯[編集]

セルジューク朝の始祖であるトゥグリル・ベグの弟・チャグリー・ベグが父で、カーヴルトは長男である。1063年に伯父のトゥグリル・ベグが嗣子無く死去すると、甥としてその後釜を狙ったが、実弟のアルプ・アルスラーンが跡を継ぐことになり、カーヴルトは弟と骨肉の争いを繰り広げて自らスルタンを自称した。

1072年に弟も死去し、その長男であるマリク・シャーが跡を継いだ。カーヴルトはこの継承に不満を抱いてマリク・シャーに反乱を起こした。だが1074年にハマダーン近郊でマリク・シャーの軍勢と戦って大敗して捕虜となり、処刑された。

カーヴルトの息子らはケルマーンの支配こそ認められたが、大セルジューク朝に従わなければならなくなった[1]。なお、カーヴルトの孫であるアルスラーン・シャー1世の時代にケルマーン・セルジューク朝は全盛期を迎えた。

脚注[編集]

  1. ^ ただし歴代君主は大セルジューク朝に従うアミールを称することを余儀なくされた

参考文献[編集]

先代
ケルマーン・セルジューク朝
1041年 - 1074年
次代
ケルマーン・シャー