Wikipedia:井戸端/subj/質問三つ

質問三つ[編集]

ノート:テープにおいて、

英語版は現状で、「テープとは特定の形状のモノである」と冒頭で述べ、素材別・用途別・性質別……に各種の その形状なモノ を分類列挙し、それぞれの詳細ページへと誘導する構成になっています。そしてその構成は、現状の日本語版でも同様であると考えます。日本語版の不備は、素材・用途・性質といった分類視点が混同されて不明瞭なこと、および各詳細ページが充分に整っていないことです。日本語版の冒頭にある「特定の形状のモノ」としての定義は、ことさら出典を要求されるべきものとは思えない、常識の範疇に収まるものでしょう。

という発言がありましたが、これに関して質問があります。

  • 常識的な内容でしたら、出典が全く存在しなくても問題ないのでしょうか(確かにWikipedia:スタブにて「記事の対象自身が単純であり、短くてもすでに完成していて、今後、加筆・成長できる余地があまりない記事」として例示されている酸欠にも水深にも出典が全くありません)。
  • 私の理解では、曖昧さ回避ページには誘導に最小限必要な情報以外は掲載しないということだったはずですが、ある程度の解説を加えてもかまわないのでしょうか。

また、以上とは関係ないのですが、ここにあるブギス語のフォントをインストールして、ブギス語版Wikipediaは正常に閲覧できるようになったのですが、なぜか日本語版や英語版Wikipediaでブギス語の文字が表示されないことがあるのですが、これは仕様でしょうか。なおOSはWindows XP、ブラウザはIE8です。またFirefoxでは正常に閲覧できることを確認しました。

--6144 2010年12月25日 (土) 10:02 (UTC)[返信]

1点目。以前どこかに、たとえば「は地球の衛星である」「アリストテレスは古代ギリシャの哲学者である」というような記述には出典はいらない、と書かれていたと思うのですが、どこにあったか失念してしまいました。実際両項目ともに現在その部分に出典はありませんし、あまりにも常識的な事実には出典がなくともよい場合はありえると思います。実際、提示は可能でしょうけれど、するとすればあまりにも膨大な文献が存在し、どれを選ぶかが困難となる場合もあるでしょう。ただし、出典が不必要とする範囲はあまり広げすぎないべきであって、例示の記事では「一定限度に満たない~と表現する」や「例えば海図等における~」以降の文には出典が必要であると思います。
2点目。「ある程度の解説」が「誘導に最小限必要な情報」となるならば、それはやはり必要なものであると思います。ですが、それは曖昧さ回避対象の記事についての個別の解説についてのことであって、曖昧さ回避ページそのものに、語源・語義などを加筆するべきではないと考えます。Wikipedia:曖昧さ回避#曖昧さ回避ページを辞書にしない に「曖昧さ回避ページは読みたいページを判別することが目的」とある通り、それ以外の情報は不要です。しかしながら、たとえば ジョン (人名) などの解説も本来は不要と思うのですが、認容されている部分もあるようです。定義程度ならよいということかもしれません。
--Calvero 2010年12月27日 (月) 13:50 (UTC)[返信]
(追記)月とアリストテレスの件、Wikipedia:信頼できる情報源#事実 に、少し違う内容で記載されていました。ちょっと記述の意味が違うので、今回の参考にはならないかもしれないです。すみません。--Calvero 2010年12月27日 (月) 13:56 (UTC)[返信]
前者2つ、出典と曖昧さ回避に関しまして私の考えを述べさせていただきます。まず大前提としてWikipediaの記事内での有意な記述には全て出典が求められます。「……の記述には出典はいらない」ということは一般論としては成り立たないと考えます。ただし、記事の文章に出典が示されていないないからといってすぐに編集による除去が行われたり、そのような行為が容認されることもありません。文章に疑問があれば記事のノートや編集者の会話ページなどで尋ねたりして真偽に関する確認を行えますが、問われた側が出典を示せない状況で「そんなの常識でしょ!」という返答も容認されません。多くの編集者は出典がなくとも不審な文章でなければ記述を容認しますし、自身も出典がないまま概ね妥当な記述を書き加えることが、それこそ常識の範囲内で行なうことが多いのです。出典が示されていない記述は真偽に関しては多かれ少なかれグレーゾーンに属している訳で、黒に近い記述は他の編集者によって除去や改変が行われる可能性が高く、そのような記述ばかり加える人物の会話ページには問い合わせなどが集まることになります。客観的に見て白に近い記述であっても出典が示されなければ除去や改変を受けることはあり、その可能性は出典が示されても同様ですが、除去・改変を防ごうとしても出典が示せない状況で「常識でしょ」という理屈は成り立たず、意見が対立すれば判定や仲裁は他者に任せる他ありません。結局、編集上で意見が対立すれば(それが真実である限り)出典の明示がほとんど全能である反面、常識というのはまったく根拠となりえません。「常識的な内容でしたら、出典が全く存在しなくても問題ないのでしょうか」という問いに対する私の答えは「本当に常識的な内容ならば出典が示されていなくても問題が生じる可能性は低い」というものです。可能な限り出典の明示は必要です。
さて、曖昧さ回避ですが、対象物によっては「誘導に最小限必要な情報」が長くなることもあるかと思いますが、それも程度問題であって、小節と呼べるほど文章が幾つも連なるともうそれは最小限とは言えないと思います。もしそのページに「曖昧さ回避タグ」が貼られていれば、編集で短くすべきでしょう。対応が難しいのは「曖昧さ回避タグ」が貼られていないので、実は曖昧さ回避ページではないケースだと思います。名前が同じであるが全く別の複数の事物に関する記事への誘導であれば曖昧さ回避ページにすれば良いのですが、もともとルーツが同じ事物の複数のページへの誘導の場合、根源側の記事でそれぞれの概要を記述するのは妥当な場合が考えられるからです。そのようなケース(探したところがそれに近いです。)では個々の記事ごとに事情が異なりますので、迷いがあればノート等で相談するということになると思います。また、ジョン (人名)の例ですが、各項目のいずれも「誘導に最小限必要な情報」の範囲内であって、問題は無いと考えます。蛇足ながら、人名でこのような曖昧さ回避ページへの記載が許されるのは「略して呼ばれることの多いものや、姓あるいは名だけで呼ばれることが非常に多い人物」といったごく特殊なケースだけであり、日本の有名人は多くが記載は不適当です。野球選手の「イチロー」ぐらいでしょうが他に誰も居ないので曖昧さ回避の必要がないのでしょう。詳しくはWikipedia:曖昧さ回避#名前の一部だけが項目名と共通しているだけの言葉は載せないをご覧下さい。以上が私の考えですがいかがでしょうか?--Shigeru23 2010年12月29日 (水) 16:33 (UTC)[返信]

シークエンスなんかはどうなんでしょう?--112.136.7.166 2010年12月29日 (水) 16:46 (UTC)[返信]

そうですね、はい……一言で言うのは難しいのですが、位置的には、曖昧さ回避ページよりもそれぞれがスタブ程度とならざるを得ない複数の事物を1ページにまとめた一般記事に近いのではないでしょうか。確かに曖昧さ回避ページと一般記事との境界線上にあるページだと思います。こうページは、理屈の上ではそれぞれの節を独立させて曖昧さ回避ページから誘導するのが良いのでしょうが、スタブ記事の乱立と同時に相互に重複する記述や読者側からも見通しが悪くなるので、多少の文言の整理を除けば上手く整えることは難しいのだと考えます。ここでは深い考察は不適でしたね。では。--Shigeru23 2010年12月29日 (水) 17:09 (UTC)[返信]

皆さんの意見を読むと「曖昧さ回避項目での説明は最小限にするべき」ということについては異論はないようです(ただし、最小限といってもある程度の分量が必要なケースも考えるべきでしょうね)。また、原則として有意な記述には出展が必要であるということにも異論はないようです。ただ、きわめて常識的な事項には出典が必要ない場合もあるという意見があり、考察の結果、以下の場合には出典が必ずしも必要ではないと考えました。

  • 一般的な国語辞典や紙の百科事典に記載されている(参考文献に一般的な辞書の名前があったら間抜けです)
  • 見れば分かる(「スタン・ハンセンの必殺技はラリアットである」「五色沼はさまざまな色を出す沼の集まりである」「初期状態のUbuntuではデスクトップの背景は鶴である」などを含みます)

そして、このような内容のみで構成できるのであり、かつ特筆性が認められるのであれば出典なしでの立項も可能だと考えました。(ただし、少なくともテープについては世界中の誰もそのような立項は行っていないようです) 皆さん返答ありがとうございました。--6144 2011年1月15日 (土) 11:10 (UTC)[返信]