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信頼できる第三者による言及の基準とその例外について[編集]

Ohgiさんは以前Wikipedia‐ノート:削除依頼/TVアニメ「アマガミSS」のアルバムノート:Azusa (シンガーソングライター)#一部転記・統合提案で、信頼できる第三者による言及があっても、宣伝的であったり、取るに足らない言及、アーティストのブログによる出典は特筆性が認められる段階ではないと仰られました。この考えを適用すれば、ウィキペディアの楽曲やアルバム記事の大半が、アーティストのブログや宣伝的文句、取るに足らない言及の出典に基いており、そうした記事も統合やリダイレクトの対象となってしまいます。しかしノート:Azusa (シンガーソングライター)#一部転記・統合提案では、出典が無くても特筆性が認められる記事が沢山あると仰られました。これは明らかに矛盾していると思うのですがいかがしょうか? そこで私は信頼できる第三者による言及の基準がどの辺りまでなのか、またその例外について皆様に御意見を伺いたく思います。--Louis XX 2011年1月25日 (火) 01:49 (UTC)[返信]

一般論ですが、特筆性があると認められるには割と厳しい条件があって、第三者(つまりその作品が売れることと関係のない)、その分野の権威が、その作品によって新しい分野が開拓されたとか、世界で初めて○○を行ったとか、日本の若者にこのような影響を与えたなど述べている場合や、それほどの権威でなくても、客観的な信頼のできる団体によって、この作品は何年度の○○賞を受賞したとか、何年度のヒットチャート1位だったと発表した時、有名な誰々氏のデビュー作、遺稿になった作品であると発表された場合などです。 ですからそういう評価を受けるには、本来分析のための一定の年月が必要で、ニューアルバムが出た直後にホイホイと簡単に特筆性が見つかるものではないのです。 それに対して、出典として使える情報は、単に信頼できる団体による客観的なデータや、公式HPでの発表などが使えますから簡単に入手可能です。
従って「出典が無くても特筆性が認められる記事が沢山ある」なんてことはあり得ません。「現段階で出典は無いが、対象物から判断して、特筆性があるに決まっている記事」なら沢山あります。 それと特筆性があっても軽微なものだったり、特筆性が大いにあっても情報量が少なくて成長が見込みなさそうであれば、本体記事へ統合してリダイレクトするほうが良いとされて、吸収されることがありますが、特筆性があっても軽微なものについては、「独立した記事を立てる程の特筆性なし」になります。 慣れた者同士の議論では単に「特筆性なし」で通じてしまうことはありますね。--Gyulfox 2011年1月25日 (火) 03:27 (UTC)[返信]
コメント《信頼できる第三者による言及があっても、宣伝的であったり、取るに足らない言及、アーティストのブログによる出典は特筆性が認められる段階ではない》という見解と、《出典が無くても特筆性が認められる記事が沢山ある》という見解に何ら矛盾はありません。後者については、「信頼できる情報源はあるはずだが、現在のウィキペディア日本語版の記事にはたまたま出典が提示されていないだけ」と考えてください。(もちろん、その記事の状態は本来的には異常なことです)
ウィキペディア日本語版でいう「特筆性」は「単独記事として作成するに足るだけの情報源が存在し、単独記事として有意義なものができあがることが期待される」ということを目的としているはずですから、単独記事としての完成形を想像し、それを充分に記述するだけの情報源があるのかという観点で考えてみてください。例えば楽曲記事だと基本的な情報以外には「評価」や「作成にまつわるエピソード」などがなければただのデータベース的な記事になってしまうんじゃないでしょうか。そして、そのような記述を充分に行うだけの第三者による言及がないのであれば、それは「特筆性」がない可能性が高いということだと思います。基準がよく判らないということであれば、情報源が少ない記事の作成や編集は慎重に行っていただいた方がよいと思います。--iwaim 2011年1月25日 (火) 03:43 (UTC)[返信]
コメントをいただき、ありがとうございます。以上の事を念頭に置いた上で編集に当たりたいと思います。--Louis XX 2011年1月25日 (火) 03:50 (UTC)[返信]