Wikipedia:コメント依頼/Yassie方式もしくは132人目方式の是非について/Ks aka 98氏のコメント

Ks aka 98氏のコメント[編集]

  • まず、著作権・GFDLを根拠として、132人目方式を排除することは不可能であるという点は、一致したと言えそうです。また、これは単に「方式」について論じているのであって、たとえばその記述が百科事典的ではないような内容の投稿について、132人目方式が使われるような事態は想定しなくてもよいはずです。したがって、論点は「同一の内容を指す項目に対して、複数の文書がウィキペディア上に存在することの是非」というように要約され、特に「既存の文書の存在を知りつつ新しい文書を投稿することについての是非」がここでの議論の対象となり、その作業の一部として「既存の文書の移動」を許容するかどうかというのが論点として含まれる、ということになるでしょうか。この場合、何を重視するかということで、さまざまな意見が出て来ると思われ、また、既に提出されているわけですが、132人目方式を排除しなければならない理由が、法などからは導かれない以上、「内容」についても論点として保持する必要があるように思います。
  • 分離のメリット)著作権・GFDL的な観点から見ると、異なる文書は分離されているほうが好ましいです。mais stellaさんがご指摘のような、二次著作物と認められないような改変の記録が残ってしまうというmediawikiの問題も含め、mediawikiとGFDLの対応関係については、かなりめんどくさい解釈などを含まなければならず、現行の「Wikipedia:著作権」は、そのための「宣言」でありつつも、いくつかの点で齟齬が指摘されており、改訂が必要と思われますが、そのためにはおそらく長期にわたって丁寧に検討をすすめなければならないため、できるだけ面倒を避けるのが望ましいです。
  • 分離のメリット:削除)分離させておくことのメリットとして、古い版が削除された場合の巻き込まれ削除を回避できることは、すでに指摘されている通りであり、百科事典の質的向上のためには削除されないための方策は否定されないことが好ましいと思います。全面改定以前を特定版削除することは不可能ではないと思いますが、全面改訂箇所の特定と、改訂前の版からの復帰がないことを確認しなければいけないため、削除依頼・審議の際の労力が増えることは、考慮すべきでしょう。古い版がスタブ/サブスタブであったり、著作権侵害のおそれはあるが転載元がわからない場合、POVやORの点からウィキペディアにおける記述としてはふさわしくないものであっても、積極的に削除はしないというのがウィキペディアの方針ですから、削除は行われません。古い版が、このような状態であれば、削除した上での再投稿は困難です。というわけで、monanekoさんの落としどころでは、まきこまれ削除は避けきれないように思います。
  • 分離のデメリット)分離する場合の困難としては、古い版をどこに置くか、古い版の執筆者への配慮をどうするか、という点が問題となるでしょう。「ほげほげ」の内容を「ほげ・ほげ」に置くならば問題は生じないと思われますが、「ほ・げほげ」に置いたり、「ほげほげ」に含まれるキーワードだが単一の項目にすることを避けたリダイレクトである「ふげふげ」に置いたりすることは、同一性保持などからも好ましくないと考えられます。リダイレクトを利用した文書の分離は、可能な回数に制約があると言えるでしょう。なお、分離を前提とするなら、「/old1」などと、古い版の置き場所をサブページとして作ってしまうことは可能ですが、なんらかの問題が発生するかもしれません。
  • 分離のデメリット:執筆者への配慮)この点については、ぼくはちょとわかりません。「Wikipediaの理念は現在の版に貢献していないような貢献(?)を残すことを意図しているのか、といった議論」については、みなさんのご意見をお待ちしたいと思います。少なくとも履歴に残さなければいけない理由はなく、投稿の記録とその内容は削除されていないのですから、それをもって十分と考えるのが妥当のように思います。これを超えて、現在項目として表示されている文書の履歴に名前を残すことこそが、記事の私物化と言えるのかもしれません。しかし、ウィキペディアの共同作業としての面を強調するのであれば、著作権やGFDLからの要請ではなく、項目への貢献者として履歴に残し、あるいは共同著作物として著作権表示を求めることがあってもいいのかもしれません(現行の方針では、後者の要求までは認められていないように思います)。
  • 動機)個々の事例について、その動機を云々することは避けるべきかと思われます。動機の特定は困難であり、ウィキペディアンであれば善意にとることが望まれます。既に挙げられているような、文書の分離、まきこまれ削除の回避という理由は、132人目方式を用いるのに十分な理由であると考えられます。しかし、動機についていくらか検討することで、132人目方式がどのように用いられるか、用いられてしまうかということを推察することは意味があるでしょう。「美しい履歴」という表現は、やや曖昧ですが、著作権やGFDL上の履歴の美しさは求められてしかるべきかと思います。既存の記事の初版の内容がとても「記事」と呼べる水準に達していないサブスタブだったり、偏った観点だらけの記事だったりする場合、新規に有用な内容の記事が投稿されてもなおこれらの古い版を積極的に残すべきか、削除するか、あるいは削除はしないけれど履歴も引き継がないのか、という点については、議論の余地があると思われます。「他の編集者の履歴を消去するために行う」というのは、実際には履歴は残っていますし、移動記録によってアクセス可能です。「Wikipedia:記事の所有権」からの引用文が示す、「GFDLによる保証」は、132人目方式には合致しません。「初版投稿者としての名誉を得たい」という理由が挙げられているのをどこかで見たような気もしますが、古い版の移動を伴う場合は、移動の記録が残りますし、新しい文書を投稿することで「初版投稿者」となったといても、ウィキペディアでは「記事の私物化」はできないのですから、単なる自己満足に過ぎず、なんらかの権利を得られるわけではありません。132人目さんやyassieさんが、自分が新たに投稿した項目について改変がなされることを拒否しているようなところは見たことがない、ですが、どうなんでしょう。ともあれ、これらの理由によって、132人目方式が濫用されることは懸念されます。
  • 濫用の際の問題点:移動荒らし)指摘されている「移動荒らし」は、現実には、リダイレクトに履歴が存在し、中継点を介しなければ移動できませんから、発生する可能性は低いと思われます。移動のための削除依頼、あるいは統合ということになるのであれば、ノートでの議論と合意というフェイズに入ることになるでしょう。一方をリダイレクトに、他方を記述のある項目にという形で争いが起こるかもしれませんが、3rrの制限があり、これも編集者同士の議論に向かうはずです。これらは、文書を分離せずに上書きしたとしてもリバート合戦という形で争いになりますから、特に問題視するものではないように思います。
  • 濫用の際の問題点:履歴の混乱)事後的に履歴が混乱するとしたら、既存の文書と新しい文書の双方の記述が必要となった場合ですが、要約欄に適切な記載があるコピペによって他方の記述を一方に加えること自体は一般に行われていますし、記述が入り乱れることがあれば、統合提案という形での対処となるでしょう。古い版の履歴は基本的に新しい文書の投稿以前に固まっており、リダイレクトとなってからの加筆が多く含まれている状態は想定しづらいですし、これは132人目方式の責ではなく、リダイレクトの履歴にある文書に加筆することに問題があると考えられます。
  • 濫用の際の問題点:複数の記述の乱立)同一の項目に対して、Aという記述、Bという記述、Cという記述…と、複数の記述が乱立することに繋がる可能性もあります。しかし、A、B、Cが、それぞれに競い合うような内容を持っているのであれば、一つにまとまった項目の記述として、それぞれの有用な記述・内容を選び、統合されることになるでしょう。
  • 濫用の際の問題点:繰り返された場合)132人目方式が繰り返される場合への懸念もあるようです。ここでは、その回数や内容が問題となるように思います。既に述べた通り、リダイレクトとして用いられる、記事の項目として同一性保持などの問題を生じない項目名は、限られていますから、繰り返される場合でも、およそ上限があると考えられるでしょう。新しい文書が、古い版とほぼ同じような内容を持つが、単に新たに書き下ろされたというような場合であれば、132人目方式が繰り返される可能性があります。この場合は、リバート合戦などが生じる可能性があり、また表記法についての検討が行われた末に、適切な場所への移動を阻害する可能性があります。
  • 濫用の際の問題点:内容)移動あるいはリバートによる混乱が生じたり、後に削除依頼や統合という手間を必要とするかどうかと言う点については、結局の所、内容に左右されます。現在132人目方式が用いられている事例については、古い文書と新しい文書に明確な違いがあり、新しい文書に対して、これと同じ程度の違いを示すような書き下ろしの文書を132人目方式で投稿することは可能とはいえ、3度4度起こるようなことではないように思います。新しい文書が、既存の文書と比較して、少なくとも有意な内容をすべて含み、また言い回しなどについても適切であって、明らかに優れていると判断される場合には、今挙げたような問題はほぼ発生せず、そうではなく、記述されるべき内容が損なわれていたり、同程度の内容しかないような新しい文書が投稿された場合に、上で述べたような問題が発生するように思います。
  • まとめ)で、個人的には、132人目方式が、なぜそんなに問題視されるのかがよくわからんというのが正直なところ。誰か丁寧に書いてもらえると助かります。あんまり広まりすぎると面倒な気がしますが、それはこの方式自体の問題ではないように思います(なので、「wikipedia:132人目方式」も作らないほうがいいと内心思ってる)。新規投稿がへぼかったり、前の版の記述を継承していたら、統合するにしても削除するにしても、新旧の記述の内容について検討しつつ当該記事のノートで合意をはかる、ということにすれば、議論は拡散せず、同一記事内のスケールで留めることができるんじゃないか? エバンズビルなんかは、統合する方がよいのでは、とは思いますが。--Ks aka 98 2007年1月21日 (日) 09:27 (UTC)[返信]
Ks aka 98氏のコメントは妥当だと思いました。しかし一つ疑問があります。上でも述べましたが、何故新規記事を丸ごと採用しなければならないのか、その必然性が示されていないということです。新規記事を丸ごと採用するというこの大前提を取り除けば、例えば分離のメリットで指摘されている問題自体存在しなくなりますよね。この点に関してはどうお考えですか?
次に各論ですが、132人目方式の実現後に関わる議論は割愛させていただきます(分離のデメリット、濫用の際の問題点:移動荒らし等)。ですので残りは上記の大前提の必然性について、他の方のコメントも引用しながらコメントします。「新規記事を丸ごと採用」という大前提の必然性はないと書いてきました(1)(2)。ですが、その大前提に対して、正当化する意見が2つあると思いました。一つはMonaneko氏の「そんな理想が、よりよい記事の作成を阻害するのであれば本末転倒です。」という意見。もう一つは61.211.14.78氏が1.で、Ks aka 98氏が(動機)で挙げた「履歴の美しさ」に関する意見です。二つ目に関しては、示唆に富む意見ですがプロジェクト全体として議論すべき事柄であり、ここで引き合いに出すべきではないと思います。本当に履歴の美しさや外部からのusabilityを問題視するならば、132人目方式を適用されるごくごく一部の記事に対して論じてもほとんど効果はなく、合理的ではありません。よって二つ目に関してはこれで割愛します。最も考慮すべきは一つ目の意見でしょう。ですが、これにも疑問を感じます。つまり、「新規記事を丸ごと採用」ができないことでどの程度執筆意欲を削ぐのかが不明瞭であるということです。私見を言ってしまえば、132人目方式の公認/禁止は執筆意欲に有意な影響を及ぼさないだろうと思います。
結論として、未だに「新規記事を丸ごと採用」しなければならない必然性がわかりません。(先のコメントにも書きましたが、そこを明確にしていただけると助かります。)そのため、私はまだ132人目方式の禁止と編集対応というのが解答だと思っております。なお、著作権侵害の虞がありそのまま組み込むことができないという例外的なケースにおいては、(制度化したうえでの)白紙化による対応がよいと考えます。--眠い 2007年1月21日 (日) 11:33 (UTC)[返信]
私は逆に、新しい版を投稿する際「前の版の内容を採用」しなければならない必然性が分かりません。そこを明確にしていただけると助かります。--Sugarcoat 2007年1月21日 (日) 11:49 (UTC)[返信]
それをしないとすれば何のためのウィキペディアなのでしょうか?少なくとも私は自分が書いた記事を基に加筆が為されていくことがウィキペディアで執筆をすることの主要な喜びの一つであると思っていたのですが。らりた 2007年1月21日 (日) 11:52 (UTC)[返信]
私の経験では、前の版に加筆する方向で検討したところ、あまりにも誤解に満ちた内容だったため、どうやってこれに加筆するんだと困惑したことが何回かあります。とりあえず、全面的に新しいものを作って一先ず完成させた上で、前の版の表現を一部取り入れることによって妥協しようかとも考えましたが、どうやっても取り入れることは不可能でした。このような場合にまで前の版に対する加筆を強制することは、よい記事を書く上で障碍になるのは明白です。そのような場合は、よい記事のため前の版を破棄するのは当然なのです。別に前の版の著者の個人的な「喜び」に付き合う必要はないのですから。--Sugarcoat 2007年1月21日 (日) 12:15 (UTC)[返信]
下にも書いたように改稿自体はなんら否定されるべきではないと思っていますし、旧版の内容を採用せよと強制するつもりもありません。しかしそれが「履歴を分断」する理由にはなっていないということです。単に全面改稿するだけではダメなのですか?らりた 2007年1月21日 (日) 12:23 (UTC)[返信]
全面改稿した際にGFDLや著作権法との関係で生じる問題が議論されているのですが、その点を全く理解してないようですね。--Sugarcoat 2007年1月21日 (日) 12:31 (UTC)[返信]
著作権侵害のおそれがあるとき以外に前の版を積極的に放棄するべき場合として、例えば前の版がWikipedia:検証可能性を満たさない蓋然性が高い場合やWikipedia:独自の調査に該当する可能性が高い場合などが挙げられます。これらの場合には記事自身の削除が適用される場合もありますが、より専門的な記事になるほど出典が存在しないであろうことや独自の研究であろうこと自体を判断できる人が少なくなるため、削除意見を集めることが難しくなりますので全面改稿で対応せざるを得ないと思われます。218.221.89.26 2007年1月21日 (日) 12:06 (UTC)[返信]
もちろん改稿自体はなんら問題ないと思っていますが、検証可能性の問題のときに履歴を分断せねばならない積極的な理由は無いと思います。著作権侵害ならばその後でどれほど加筆が為されようと削除されねばなりませんが、検証可能性は出典が明示されれば削除される必要はありません。その項目の概念自体が独自の研究の場合はそもそも項目自体が存在する意義が無いわけですから加筆されていようとどうであろうと削除してしまえばいいと思います。らりた 2007年1月21日 (日) 12:13 (UTC)[返信]
多少すれ違いが生じているようです。眠いさんの『未だに「新規記事を丸ごと採用」しなければならない必然性がわかりません。』という全面改稿の必要性を理解されていないように思われるところに返答しています(おそらく利用者:Sugarcoatさんも同じかと思いますが)。その際に履歴の分断が必要かどうかについては上のコメントではわきに置いています。218.221.89.26 2007年1月21日 (日) 12:39 (UTC)[返信]
  • ええと、ぼくが132人目方式の禁止には反対という立場をとる理由は、眠いさんがここでの議論から除外している部分に多くを拠っているように思うので、対話がかみあわないかもしれません。132人目を否定すること、これによって特定版削除が複雑化しすることで、おそらく著作権法とGFDLとウィキペディアの対応付けに、さらなる混乱を招く、というのが、ぼくの前提条件となっています。
  • 132人目方式を用いるか用いないかについては、投稿者の自由である、ということで、一つの答えになるでしょうか。なので、用いることにも用いないことにも理由はあまり必要ではないように思っています。まったく新しい文書を投稿する人が、これまでの文書との連続性を重視し、古い版の削除にまきこまれてもいいという判断の下に、投稿することも自由ではないか、と。
  • 「丸ごと採用」については、スタブがある記事について、ある程度まとまった原稿を投稿する場合、そのスタブとの整合性をとるための労力をどう評価するか、ということが論点になるのではないかと思います。この労力は、必ずしも、より優れた記事にするということに繋がらないのですから、これを投稿者に制度として求めることは難しいのではないかと考えます。また、以前のご意見からは、履歴を継続させた状態で、まったく新しい文書を投稿することも「丸ごと採用」に含まれるように思われます。132人目方式を用いても用いなくてもGFDL上の問題は引き起こされませんから、ご意見を読む限りでは、新規書き下ろし投稿自体の問題点であるように思われます(218.221.89.26さんもそのように捉えているように思うのですが、それでよいですか?)。
  • その後の議論を見ると、これはウィキペディアとは何かという、さらに大きな問いに発展するように思います。単純化して書いてしまうと、自由に使える世界最大百科事典ということを考えれば、記事の質が重視されるべきであり、極端なことを言えば、新しい文書に完全に取って代わられるような古い文書は不要であり、復活の余地がないことを削除依頼で審議した上でボツとして削除してしまえという意見があってもいいように思います。そうではなく、同じ目標に向かって相互に助け合いながら努力する執筆者のコミュニティという面を考慮するならば、先行する投稿者の寄与を尊重すべきだという考えもあるでしょう(もちろんこの単純化は乱暴なので、このイメージに惑わされることなく、論理的な議論が続けられるようお願いします)。削除するほどではなく、アクセス可能な状態を保持しながら、文書を分離することで得られるメリットを生かすという意味で、132人目方式は、一つの落としどころという気もしてきました。
  • 「履歴の分断」という表現は、ちょっと見方が外れていくように思います。「履歴」は、GFDLを守る上での表現で、異なる文書については、履歴は最初から別物のはずなのです。もう一度書きますが、履歴は分かれているほうがGFDL上は都合がいいんですが、一緒にしないとダメなのですか?--Ks aka 98 2007年1月21日 (日) 12:45 (UTC)[返信]
ととと、失礼しました。関係の無い人物を著作者としてあげるのは問題ということですね。私もかんり論旨が混乱してしまい、議論をかく乱してしまいました。申し訳ありません。ただ感情論に過ぎないでしょうが、この方式をやられた場合に元執筆者が気分を害するのは明らかであり、それに対する配慮をして欲しいと思う次第です。らりた 2007年1月21日 (日) 12:55 (UTC)[返信]
著作権上の寄与をしていない記述者に、どのような配慮をするか、配慮すべきか、必要ないのか、何ができるのか、というのは、一つの論点になると思います。慌てすぎっす>らりたさん。--Ks aka 98 2007年1月21日 (日) 13:11 (UTC)[返信]
執筆者への配慮という点が議論されているのでコメントします。主観的な問題だと思うので人によって意見が違うと思うのですけれども、132人目方式で全面改稿されるのと、そのまま(白紙化はあってもなくてもいいですが)要約欄に全面改稿と宣告されて全面改稿されるのと、どちらがより気分を害するでしょうか。
というのは全面改稿自体がいわばそれまでの版の執筆者たちへの批判とも取れる面があるわけです。なので132人目さんが述べられている通り、全面改稿より前の版に名前を連ねた人たちは見方によっては駄目執筆者の烙印を押されてしまうことになりかねません。その点、132人目方式ではそれがリダイレクトの過去版という比較的アクセスしにくいところに隠匿され、そういうことが起こりにくいというメリットがあるように感じました。つまり132人目方式を使う人の中にはそういう「配慮」をしている人もいるのではないかと思います。そうすると全面改稿された版を投稿したことが恥であると感じる人は132人目方式に同意するのではないかと思われます。逆に全面改稿された版に対しても貢献であると考えている人は、自分の貢献を隠匿してしまう132人目方式には拒否反応を示すだろうということもいえると思います。
するとある記事への132人目方式の適用は、全面改稿前の執筆者たちの考え方次第で賛同にも拒否にもなるということで、執筆者への配慮という点からだけでは単純に推奨あるいは禁止とはできないように思いました。218.221.89.26 2007年1月21日 (日) 14:19 (UTC)[返信]
古い版の削除にまきこまれてもいいという判断」とはなんでしょうか。意地悪な見方をすれば、議論を特定の方向へ誘導する印象操作の見えなくもありません。自身が削除権限を持ち、削除の作業を行う立場にあるKs aka 98さんは、誤って削除することがないように常に注意を払う立場ではありませんか。また、もし誤って削除した場合には復帰を行う立場ではありませんか。削除の失敗を仄めかすようなことをおっしゃるのはどんなもんでしょう。
それにしても『否定することで特定版削除の複雑化を招く』というのはどういう状況を想定されているのでしょうか? 過去の版を丸ごとリダイレクトの下に『埋める』ことで、むしろ履歴が追いにくくなってしまうように思えるのですが。 -- NiKe 2007年1月21日 (日) 14:22 (UTC)[返信]
著作権やGFDLを中心に論じる方がいても構わないと思います。許容できない点はありますし噛み合わないこともあるでしょうが、それなりに理解はできると思いますし。なお、上記でコメントをくださったSugarcoat氏、218.221.89.26氏へも、このコメントで返答とさせてください。
まず私が述べたいのは、著作権、独自の研究、検証可能性、これらの観点で白か黒かグレーかを分けて論じる必要があるということです。黒のケースは明確に削除の方針に従って対応すべきであり、本件で議論するまでもありません。本依頼でみなさんが議論しているのは、白とグレーのケースです。Ks aka 98氏はグレーのケースにおける法律上のトラブルを考えて132人目方式を推奨するという立場ですね。さらに、記事の発展が見込めるならそしてWikipediaの発展に繋がるのなら、白のケースでも132人目方式を許容するという立場と見受けました。
私としては白のケースでは前回のコメント同様132人目方式は禁止、ですがグレーのケースでは議論の余地があると考えます。グレーのケースでは、最もスマートな対応は「疑わしきは罰する」ことが可能なように削除の方針を変更することでしょう。これにより、履歴の点でもGFDLの点でも白紙化・132人目方式より優れた記事ができあがります。次点に来るのが白紙化と132人目方式ですが、これらの優劣に関しては決定的な理由があるわけではありませんでした。法律上問題がないならばリソース・履歴の観点から白紙化が好ましいという程度の判断です。ただし、「白紙化では以前の著作権侵害等の虞がある版からの異物混入が云々」という意見に関しては、説得力がないように思います。黒のケースと異なりグレーのケースではあくまで「虞」というレベルであり、また危険な異物の混入はこのような方式を適用した/しないにかかわらず起こりうるものだからです。
白のケースに関しても編集対応ではなく、もしできが悪いから削除/132人目方式と対処できるきまりを作るならば、それはそれで構いません。ただし、それはトラブルや下手をすると荒らしの誕生すら招く可能性があるのではないか、という苦言は述べておきます。それに比べ、ほとんどの執筆者が当たり前のように行っている「編集」という対応へ折れるという対処は、こと白のケースにおいては最もトラブルの少ない選択肢なのではないかと私は考えています。(議論に加わっておいてなんですが、多忙につきしばらくウィキブレイクします。途中離脱して申し訳ありません。)--眠い 2007年1月21日 (日) 14:31 (UTC)[返信]
  • ああ、やや軽率な表現ですね。失礼しました。「まきこまれ削除となる可能性を感じながら、投稿することも」と訂正します。
  • リダイレクトの下に埋められた履歴は、132人目方式で書かれた記事の履歴と無関係です。履歴を追う必要はありません。リダイレクトの下に埋め込まれた記事に問題があった場合、削除すればそれで終わりですよね? 132人目方式で書かれた記事に問題があれば、初版から全削除、その後の加筆で問題があれば、直後のリバートなどがなければ特定版以降削除です。古い履歴の記述が新しい記述に移される場合、多くは正しいコピー&ペーストによって行われるはずですから、問題の記述を追跡することは難しくありません。これらは、現在の削除と基本的には同じです。
  • 132人目方式を使わずに、上書きで新しい記事を投稿した場合を考えましょう。古い記事に問題があった場合、まず、要約欄に「全面改訂」とか「白紙化」とか書いてある部分を探します。この版の差分を見て、それが旧来の文書を生かした改稿であるか、まったくの書き下ろしであるかを判断します。その全面改訂後に、古い記述からの復元がなければ、全面改定より前の版を特定版削除することができます(前例があるかどうかはわからないです)。しかし、全面改訂後に、古い記述からの復元があれば、全面改定前の版を削除することで履歴が損なわれるためにGFDLvioとなります。古い版からの復帰の場合は、要約欄などにその旨を書き残すことは義務づけられていませんから、すべての版について確認しなければ、全面改訂前の版の特定版削除はするべきではないでしょう。したがって、削除依頼、削除審議の際に、すべての版の確認を誰かがしなければならず、管理者の削除、および特定版削除の確認の際にも、これらの確認を必須としなければなりません。復帰があった場合は、そこから先の版を削除、つまり中抜きならぬ「中残し削除」をすることになります。これが「特定版削除の複雑化」です。これへの対処案として「218.221.89.26 2007年1月21日 (日) 13:40 (UTC) 」の書き込みもあるので、こちらもご参照下さい。
  • 加えて、132人目方式を禁止する場合、著作権法との絡みで言えば、既に指摘されている121条の問題や、GFDL上の履歴と著作権表示の関係から、すべての投稿者を共同著作物の著作権者と見る必要性が高まります。以下、解釈は一通りではないとは思いますが、このような捉え方をする場合、投稿の直接の寄与ではなく、項目/文書への貢献として、細部の編集などにも著作権者としての地位を与えるのですから、古い版の著作権者は、自分の投稿以降の、本来異なる著作物である改訂版についても著作権を主張し得るという解釈になりかねません。こうなると、全面改訂前の版の特定版削除は困難ですし、現行の直後のリバートにおける中抜き削除も同様に困難になります。
  • 古い版に問題がある場合のまきこまれ削除への懸念は、132人目方式の大きな動機の一つだという認識はこのページの「目的と理由」で述べられています。上記「中残し削除」は、現行のルールでは、このように行われるべきものですが、制度として、または手順として定着しているとは言えないと思いますし、明文化されてもいないと認識しています。過去に例があれば、ご指摘頂けると参考になるかもしれません。が、132人目方式と比較して、圧倒的に労力を必要としますし、人為的なミスの発生する可能性は高いです。現状、削除依頼や削除の方針には、全面改訂時の配慮に関する但し書きなどもなかったと思います。投稿者の立場から考えれば、まきこまれ削除の可能性は考慮しないわけにはいかないでしょう。もちろん、削除審議に関わり、削除を実行する立場としては、誤りなきよう努力しますし、諸管理者、諸削除審議参加者も常々信頼しているのですが、上記の流れを考えれば、まきこまれ削除が発生しないと胸を張れるような状態ではないと思いますし、上で述べたような作業を義務として誰かに課すことも好ましくないと思います。--Ks aka 98 2007年1月21日 (日) 15:40 (UTC)[返信]
白のケースに関しては私の意見は変わりません。しかしKs aka 98氏のコメントを読み、グレーのケースに関しては白紙化と比べて132人目方式の方がベターであろう、と意見を変えさせていただきます。しかし132人目方式自体に全く反対しない、というわけではありません。2つの条件をクリアした場合、グレーのケースでの132人目方式を許容できる、という立場になります。
一つ目の条件は、著作権侵害等の虞の蓋然性の程度です。便宜上白のケースと述べましたが、真っ白なケースというのは事実上存在せず、あくまで蓋然性の程度問題になります。そのため、私が132人目方式を許容できるかどうかは、どのくらいの蓋然性の際に132人目方式を適用し、どのくらいの時には折れて編集対応を行うのか、という点が重要になると思います。黒に近いグレーならば賛成するでしょうし、白に近いグレーならば反対するでしょう。(私の判断の例を挙げると、イースト・ロサンゼルスの初版は白の蓋然性が高く、これに132人目方式を適用するのは受け入れかねます。)
もう一つの条件は、どの程度議論がなされたか、ということがあります。これは上記のように程度問題が絡み一人では客観的な判断が難しいため、ぜひ必要であると思います。(再度引き合いに出して申し訳ないのですが、イーストロサンゼルスの件のようにノート等での議論なしに一方的に適用した場合は受け入れかねます。)なお、この議論の必要性に関する条件を最も厳格に運用するための方法は、このような裏技ではなく前のコメントで述べたとおり方針レベルの変更対応であり、可能ならそちらの方がベターだと思います。(骨の折れる作業とは存じますが。)--眠い 2007年1月21日 (日) 16:45 (UTC)[返信]
日本国の著作権法がとりわけユニークであるので、日本語版においては132人目方式が許容または黙認されるという理屈(しっかり立論され納得がいくもの)であるのならば理解しやすいとは思います。そこで英語版をはじめとする他国語版の状況を確認したいと思いました。どなたかこの辺り明るい方はおられるでしょうか?というのは、著作権がらみという論点は日本ローカルでは他国と事情が異なるという可能性はあるとしても、その他の要素はすべてウィキペディアプロジェクト各国語版共通であるからです。事実として、132人目方式という日本語版ローカルな裏技が少なくともこれまでそれなりに適用されていたのは、プロジェクト全体の視点からみるとイレギュラーなことです。あくまで日本の著作権法の理由により同じウィキペディアプロジェクトでありながらも他国語版とは事情が異なるので、そこに苦渋の策としてイレギュラーな状況が発生するというのであれば、仮にここで肯定された場合でも広い理解が得られやすいでしょう。どうもこの辺をはしょってWikipediaの理念やシステムの仕様の限界という話をここつまり日本語ローカルの一部の人間の間でつめてしまうのには違和感を感じます。繰り返しますがこの132人目方式というネーミングからも明白なようにローカルな方式であるらしいので。いかがでしょうか?(追記)プロジェクトのレイヤーでいうと、結構根深い部分の操作、また理念、原理原則に抵触しかねない部分をこの方式は触っているのは論点整理などを経て明確になっていると思います。ですから、メリット、デメリット、トレードオフという単純な足し算引き算、投票という段階になし崩しに行く前にもう少しこの方式を日本語ローカルだけでない視点での「耐性」をテストしたいと感じました。あくまで日本語コミュニティの自立性というのはあるわけですが、仮にこの議題をきっちり翻訳した上で日本国の著作権法の状況も含め英語版ウィキペディアンに精査してもらった場合同様にプロジェクトとしていた仕方がないと許容されるのかどうか興味があります。実際にそういうプロセスを経るべきだと申し上げているのではなくて、少なくとも現時点で日本語ローカルの現象であり、それはたまたま日本人のある利用者が発明したからということでなく、ほんとうに日本国著作権法がらみで仕方がないという必然性があるのかというのを確認したいという事です。--219.122.233.148 2007年1月21日 (日) 17:18 (UTC)[返信]
視点としては面白そうですが、検証は困難であるように思いました。132人目方式が行われているかどうかについて他言語版での実態を把握するには、その例を探さなければならず、今回は使用者の投稿履歴を追うことで実例を発見していますが、多国語版においてはリダイレクトに履歴があるものを探し、リダイレクト先の履歴との時間的な比較や移動記録を確認するということになり、132人目方式が、よほど普及していなければ、なかなか見つかるものではないように思います。また、スタブが先行し、翻訳記事を投稿するという場合は、比較的、互いに独立した複数の文書が投稿されることとなりやすいと思うのですが、これは非英語版のほうが発生しやすい事象だと思われます。また、英語版ウィキペディアンによる精査については、過去に履歴の問題でMLやノートで確認しようとして、うまくいかなかったことがあったと記憶します。--Ks aka 98 2007年1月22日 (月) 19:29 (UTC)[返信]


  • これまでに何人かの方から指摘されてきた(追記--へのいち 2007年1月22日 (月) 03:31 (UTC))「全面改訂した場合に、新しい版にまったく寄与していない方々の名前が履歴に並ぶのは問題である」という論点についてです。Mediawikiでページの履歴として表示されるのは、あくまでもデーターベースの履歴であって、GFDLで欲しているような著作者の表示ではないのではないでしょうか。Mediawikiでページの履歴として表示されるなかには、最新版に対して多大な貢献をした人もあれば、あまり著作性のないスタイル修正をした方もあれば、いたずら書きをしてすぐリバートされた方の名前も並んでいて、それはむしろ当然のこととして周知の事実です。ですから、Mediawikiの履歴表示が直ちに最新版の著作者表示とはならないわけで、誰がどのような貢献をしたかは個々の差分を見て初めて判ることだと思います。このような履歴表示をもってGFDLにマッチする著作者表示であると偽っているならそれ自体が問題ですし、Mediawikiの履歴表示は必ずしも著作者を表すものではないという至極当然の認識が共有されまた対外的にも示されているのならば、冒頭に掲げた「全面改訂した場合に、新しい版にまったく寄与していない方々の名前が履歴に並ぶのは問題である」というのはまったく的外れであるということになるのではないでしょうか。--へのいち 2007年1月21日 (日) 17:34 (UTC)[返信]
この論点を主眼としては記述していないつもりですが、そうでなく読み取られたのであればお詫びします。そこのところは、実際よくわからないところで、懸念を懸念として表明し、あるいはそれが動機であることは示す必要があると思い、記述に加えましたが、ぼくの懸念が懸念で終わるのであればそれはそれで助かります(誤解を招く、必要以上に議論を誘導するということであれば、打ち消し線を加えて頂ければ)。「GFDLで欲しているような著作者の表示」とありますが、懸念で終わるならば、それはGFDLは著作者の表示をタイトルページの5人以外では欲していないということになるのではないか、と思っています(差分はGFDLの要件ではありません)。昔の「Wikipedia:著作権」の議論では、直接扱ってはいないのですが、そのような感じで話が進んでいるような印象を受けた記憶があります。
話を進める上では、履歴関係では132人目方式を否定できないこと、132人目方式を用いない場合に削除時に混乱が生じること、および132人目方式を否定する積極的な理由についてのご意見をいただければと思います。--Ks aka 98 2007年1月21日 (日) 21:35 (UTC)[返信]
『過去の版を引き継いでいない』と宣言して投稿されていても、過去の版を継承していないことが保証されているわけではなく、従って過去の版を精査しなければ確実ではない。それは確かにその通りですね。では、「132人目方式」と称して移動した場合には調べなくても過去の版と無関係であると保証されているのですか?
『著述に寄与していない人物までが著作者として表示される』という件については、へのいちさんの指摘された通りでしょう。過去の版と現在の版が断絶していたとしても、「履歴」として表示されるということは過去の版も保存されており閲覧可能であるわけです。紙の文書で言えば、履歴と過去の版がセットで付録になっているようなものでしょう。問題になり得るのは、転記で著作者名を要約欄に記入する時などに限られると思います。 -- NiKe 2007年1月22日 (月) 01:55 (UTC)[返信]
へのいちです。上に私が書いたコメントは特にKs aka 98さんのご意見に対して書いたものではなかったのですが、場所が悪かった上に言葉足らずで、誤解させてしまったようです。お詫び申し上げます。幾らかでも誤解させにくくなるように冒頭部分に追記しておきましたので、ご確認願います。私が書いた問題についてのKs aka 98さんのスタンスは、すでにわかりやすく書かれていたと思います。実際、私もその辺りを誤読して上のコメントを書いたというわけではないのですし、私の書きようが悪くてKs aka 98さんに要らぬ心配をお掛けしてしまい申し訳ありません。
とはいえ、Ks aka 98さんのご意見に対して申し上げることがあれば次の点です。Ks aka 98さんが書かれた「個人的には、132人目方式が、なぜそんなに問題視されるのかがよくわからんというのが正直なところ」「あんまり広まりすぎると面倒な気がしますが、それはこの方式自体の問題ではないように思います」という感じ方についてです。このやり方に異を唱えている方のご意見を伺っていると、皆さんはこのやりかたが広まったときのことを問題視していて、その問題はこの方式自体の問題だろうと考えているのだと思います。私は次のように想像しています。このやり方が広まると「万人の万人に対する戦争」のような状態となって、毎日のようにあちこちで局所戦が起こって、いつ隣の奴に刺されるかというような雰囲気がウィキペディアに蔓延して、多くの参加者が離れてゆく。つまりここで話題になっている方式は例えていうなら銃器のようなもので、一つ一つの銃器は狩猟や自衛のためには必要なので、これをもたせてもらえないような社会では安心して暮らせないと考える人もいますし、逆にこれが誰にでも簡単に手に入るような社会では安心して暮らせないと考える人もいるわけです。不幸な事件がおこったとしても悪いのは銃器自体ではなくて悪いことに使う奴が悪いのだという考え方と、銃のない社会を作ろうという考え方があるわけです。このコメント依頼で論じられていることの本質はこの二者択一問題と似たようなもので、論理的にどちらかの結論が引き出せるようなものではなくて、参加者の主観的な総意とでも呼ぶべきものによって選択するものなのではないかと思っています。いかがでしょうか。
私自身は、どちらを選ぶか決めかねているというところです。--へのいち 2007年1月22日 (月) 03:31 (UTC)[返信]
それ以前に、必要なのかどうかが不明確なままです。 -- NiKe 2007年1月22日 (月) 04:18 (UTC)[返信]
もろもろ以下に。--Ks aka 98 2007年1月22日 (月) 19:29 (UTC)[返信]