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{{観点}}
'''哲学史'''(てつがくし)は、[[哲学]]の[[歴史]]およびその研究のこと。

==概要==
一言で哲学と言っても、[[ギリシャ哲学]]もあり、[[イスラム哲学]]もあり、
[[西洋哲学|ヨーロッパ哲学]]もあり、[[インド哲学]][[中国哲学]]もある。

従来の哲学史では、あたかも、哲学は古代ギリシャに始まりヨーロッパ中世の哲学を経て、ヨーロッパの近代市民社会の哲学へと一直線に進歩してきたかのように記述することが、学会・思想界などで常識とされていた。だが、このような記述のしかたは19世紀のヨーロッパの市民とその哲学に基づく自己中心的な記述でしかない、といった主旨のことが平凡社『世界大百科事典』などで指摘されている<ref>平凡社『世界大百科事典』【哲学】「<哲学史>のとらえなおし」</ref><ref>『新カトリック大事典 第三巻』【哲学】「哲学と哲学史」</ref>

<ref>注:(繰り返されたいつわりの歴史説明によって勘違いさせられてしまっている人が多数いるため、あえて注意を喚起しなければならないのであるが)、[[ギリシャ]]というのは、ヨーロッパに属するのではなく、[[地中海世界]]に属している(出典:『世界大百科事典』【哲学】)。ヨーロッパというのは、[[アルプス山脈]][[ピレネー山脈]]以北の地域である。
かつて地中海域の南東から、[[アラブ人]]が姿をあらわし、地中海域を制圧し、勢力を東方ペルシャの古代文明圏にまで拡大し、[[イスラム]]文明圏を形成した。ヨーロッパというのは、その先進イスラム文明から、文明や学芸を学んだのである。つまり、ギリシャを父とするならば、イスラム文明が兄であり、ヨーロッパは弟である。ギリシャ哲学を父とするならば、イスラム哲学が兄であり、ヨーロッパ哲学は弟である。
ヨーロッパ人は11世紀以降、地中海世界に進出し始め(その典型が[[十字軍]]である)、15世紀に世界征服を行い、ある意味で兄文明であるイスラム文明を凌駕した。このような力にもとづく世界征服の結果、ヨーロッパ人の心の中に西欧文明中心主義が生まれ、そうした感情を根拠に彼らのいわゆる
"哲学史"の概念・説明方式や、いわゆる"哲学"の概念・説明方式が生まれた。そして「"近代的進歩的な"西洋 vs "前近代的な"東洋」などとする説明がまことしやかに語られ、流布することになった。だが、こうした説明はすべて偏見に基づく歪曲である、と『世界大百科事典』は指摘している。(『世界大百科事典』p.143など。同様の指摘は他にもあり)</ref>

<ref>{{要出典範囲|哲学の歴史は、[[古代ギリシア]]に始まる}}。以来、人が自然の驚異や人の生病老死や喜怒哀楽に出会い、生の不条理に疑問を感じるところ、至る所にあるとされて、歴史を重ねてきた。とはいうものの、{{要出典範囲|この「古代ギリシア以来」という言い方も実は西洋的、もっと細かく言えばヨーロッパ的なものであり、哲学史と呼ばれているものの、実質は[[西洋哲学]]、ヨーロッパ哲学の歴史に他ならない}}</ref>
<ref>{{要出典範囲|これに対して、中国の哲学或いは[[思想]]の歴史はふつう[[中国思想]]史と言うし、また、インドのものも別に[[インド哲学|インド思想或いはインド哲学]]などと呼んで、西洋哲学史と区別するのが普通である。[[アラブ人|アラブ]]・[[イスラム世界]]の[[イスラム思想|イスラム思想或いはイスラム哲学]]は、西欧哲学と同じように[[ギリシア哲学]]を基礎に置く哲学の体系だが、これとても哲学史の中では西欧に影響を及ぼした以上の見方がされることはない。}}</ref><ref>注:こうしたものもすべて含めて、世界全域で営まれてきた哲学と思想の歴史を文化の壁を越えて語りたい時には、敢えて「世界思想史」といった表現を選ぶことがある。しかし、その際には、哲学研究というよりも、[[比較思想]]研究といった色彩が強くなり、全体の歴史を捉えようとする動きは希薄ではある。</ref>

ヨーロッパ哲学に関して言えば、「西洋にあっては知による知の根拠づけとも言うべき哲学の長い伝統がある」<ref name="my">[[マイペディア]]、電子辞書PW-A8000所収</ref><ref>「文明史的観点から西洋哲学を相対化することは可能であるし、場合によって必要である、とし、ただし、「[[ロゴス]](言葉,理性)の運動を極限まで押し進めるという徹底性は他の思想伝統には見られない特質であって、安易な批判や超克こそむしろ警戒されるべきである。」と、マイペディアでは記述されている。(出典:マイペディアPW-A8000)</ref>

<ref
>シュヴェーグラーは「このような区分がなされるのは、単に西欧の長い伝統に基づく理由だけではなく、中国ないしインドの思想はその内容において単なる[[神話]]ないし[[神学]]であって、西洋哲学のもつ、哲学的方法によって探求される究極的な原理に基づく思想ではないという点にある」といった主旨のことを述べた(シュヴェーグラー・上掲書(上)・21頁)。</ref>
<ref>シュヴェーグラーは、哲学史を大きく分けて、古代ギリシアと近代哲学に分け、その両者を繋ぐものとして、中世の
[[スコラ学]]についても簡単に言及する形式をとった。中世のスコラ学の内容を、神学を前提とした神学の範囲内における哲学的思想にとどまる、などと位置づけた。(シュヴェーグラー・上掲書(上)・28頁)</ref>
<ref>シュヴェーグラーは、哲学と
[[科学]]を区別するのは、その対象ではなく、哲学的方法によって探求される究極的な原理に基づく思想であるか、それとも[[経験]]から直接に研究の素材を取り上げることが許されるかという点にあり、そのため、哲学においては、諸科学とは異なり、人類の歴史が続く限り、完成された哲学というものは存在せず、ただその時代時代の哲学が存在し得るに過ぎない。そして、哲学史は、そのような時代時代の哲学の内容と時系列とそれらの内的な関連性を明らかにすることを研究するものである、とした(シュヴェーグラー・上掲書(上)・22頁)</ref>

==古代ギリシャ==
一般に古代ギリシャの哲学は大きくソクラテスを中心にして、「ソクラテス以前」「ソクラテスの時代」「ソクラテス以後」の3時代に分けられている。<ref>例えば、シュヴェーグラー・上掲書(上)・28頁などもそうである。</ref>。順に説明する。

=== ソクラテス以前 ===
哲学の祖は、一般に[[タレス]](前624年 - 前546年頃)とされる<ref>今道友信『西洋哲学史』p.18</ref><ref>シュヴェーグラー・上掲書(上)・35頁</ref><ref>注:タレスを哲学の祖とするのはアリストテレス以来の伝統に従った説明である。アリストテレスは『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』において次のようなことを語ったので、それを下敷きとしているのである(出典:熊野純彦『西洋哲学史』p.3)<br/>
:ところで、あのはじめに哲学した人々のうち、その大部分は素材の意味での原理([[アルケー]])だけを、一切の存在者の原理であると考えていた。すなわち、全ての存在者が、そのように存在するのは、それ(アルケー)からであり、それらの全てはそれ(アルケー)から生成し、その終末にはそれ(アルケー)へと消滅してゆくそれ (中略)を、彼らは、一切の存在者の構成要素であり、原理(アルケー)である、と言っている。(アリストテレス『形而上学』第一巻第三章。) 
</ref
>。タレスは、「万物の原理は水である」との命題を立てた。その命題の評価はさておき、それを「神話」と区別し、原理([[アルケー]])に基づく思想としてその命題を立てた点が哲学の祖とされる所以である<ref>シュヴェーグラー・上掲書(上)・35頁</ref>

[[ソクラテス以前の哲学者]]には、タレスと共に[[ミレトス学派|前期イオニア派]]とされる [[アナクシマンドロス]](前610頃 - 前546年)、[[アナクシメネス]](前585 - 前525)がいる。[[ヘラクレイトス]](前540頃 - 前480年頃)の流動の原理は、[[エンペドクレス]](前490頃 – 前430頃)の四元素説に、これが更に[[デモクリトス]](前460頃-前370年頃)の[[原子論]]に影響を与えた。これらの[[自然哲学]]は、いずれも万物の原理を探求し、近代の自然科学にも重大な影響を与えた。

人の精神([[ヌース]]、nous)こそアルケーとした[[アナクサゴラス]](前500頃 - 前428頃)はソクラテスに、一の物に真の実体性があり、多に真実在はないとの[[エレア派]]の結論は中期のプラトンに、[[ピタゴラス]]学派の[[霊魂]]の不滅と[[輪廻]]説、下界にある肉体を魂の牢獄とした上で、自殺に反対する見解は、後期のプラトンに影響を与えた。

=== ソクラテスの時代 ===
'''[[ソクラテス]]'''(前469年頃 - 前399)は、ソクラテス以前の哲学とは全く異なる新しい原理を提唱した。ソクラテス以前は哲学の原理は万物、つまり自然の研究に向けられていたが、ソクラテスは、これを人の道徳的な生き方にこそあるとして革命的な転換を提唱したのである。そのため、ソクラテスは、[[無知の知]]を強調し、まず、自分は知を欠いているのだ、知らないのだ、と自覚することこそが必要であるとして、[[弁証法]
]を活用した。そして、このような知の概念こそ真実在であるとしたのである。<ref>もっとも、これは、ソクラテス自身が従前の哲学や[[ソフィスト]]を侮蔑するための強調したことであり、ソクラテスは理性を持たない自然からは何も学ぶものがないとして散歩にすら行かなかったとされている(シュヴェーグラー・上掲書(上)・100頁)</ref><ref>ソクラテスは、後に、「{{要出典範囲|このような過激な性格ゆえか}}」自ら毒杯をあおいで死ぬこととなったと{{誰}}は述べた。</ref> ソクラテスの思想は、弟子のプラトンによって受け継がれ、発展させられることになった。

'''[[プラトン]]'''(前427 - 前347)は、ソクラテスの知の概念を客観化し、ものごとの真理そのものである'''[[イデア]]'''を探求することがフィロソフィアの目標だとした上で、ソクラテス以前の自然哲学を取り込み体系化した<ref>シュヴェーグラー・上掲書(上)・117頁</ref>。これによりフィロソフィアは真理への愛、として確立することになった。プラトンの著作は、専らソクラテスの影響を受けた第1期、諸国を散策し、エレア学派の影響を受けた第2期、帰郷し、[[アカデメイア]]の学頭となり、[[ピタゴラス学派]]の影響を受けた第3期に分かれる<ref>シュヴェーグラー・上掲書(上)・123頁</ref>

プラトンの弟子 '''[[アリストテレス]]'''(前384 - 前322)は、普遍的概念を独立の実体とするプラトンのイデア論を徹底的に批判し、むしろソクラテスと同様に、普遍は個物を離れて存在し得ないとした<ref>シュヴェーグラー・上掲書(上)・117頁</ref>。そして、存在(=あるもの)の原理を探求することを哲学の根本に据え「第一哲学」、すなわち'''[[形而上学]]'''と呼んだ。そして存在のphysis(ピュシス、=nature、[[本性]]、[[本質]]、[[自然]])を探求する'''[[自然学]]'''('''[[自然哲学]]''')を「第二哲学」と呼び、それもともに推し進めた。そして、医学、弁論術、文芸等々も教え、およそ500冊におよぶ著書(専門家向けの書および入門者向けの教科書)を著したとされる。プラトンがギリシアの民族性に根ざした直感的大系を有していたのに対し、アリストテレスは、経験的・帰納的・分析的で普遍的なものとなった。それは必然的に百科全書的な特徴を有するにいたり、その膨大な著書は、その後、千年以上にわたり[[イスラーム世界]]、[[地中海世界]]、[[ヨーロッパ世界]]において整理して体系化され、アリストテレスは、[[論理学]]、[[倫理学]]、[[美学]]、[[博物学]]、[[自然法]]の父とされ、「万学の祖」と称されるようになった<ref>シュヴェーグラー・上掲書(上)・173頁</ref>

=== ソクラテス以後 ===
ソクラテスの時代以降の古代ギリシアでは、客観的な学問的献身を欠く主観論が支配的となった。[[ストア学派]]と[[エピクロス学派]
]はそれぞれ己の立場からの[[独断論]]に過ぎなかったし、[[新プラトン主義]]に代表される[[懐疑論]]は独断論を否定する主観論に過ぎなかった<ref>シュヴェーグラー・上掲書(上)・211頁</ref>。そこでは、調停不可能な不毛な論争が繰り返されるだけだったのである。

==イスラム哲学==
{{seealso|イスラム哲学}}
古代ギリシャ哲学は[[イスラム世界]
]に受け継がれた。イスラム世界において、アッバース朝の[[カリフ]][[マームーン]](786年-833年)は国家的事業として、ギリシャ語文献を翻訳させた<ref>『岩波 哲学・思想事典』【イスラーム哲学】.p76-77</ref>。翻訳センター・研究所・天文台である「[[知恵の館]]」が設けられた。翻訳の大半は、[[ヤコブ派]][[ネストリオス派]]などの[[東方キリスト教]]徒が、[[シリア語]]を介して行った<ref>『岩波 哲学・思想事典』【イスラーム哲学】.p76-77</ref>

ギリシャ哲学のアラビア語への翻訳で中心を占めたのは、[[アリストテレス]]とその注釈者の著作であった<ref>『岩波 哲学・思想事典』【イスラーム哲学】.p76-77</ref>

[[ネオプラトニズム]]については、プロティノスやプロクロスの原典からの直接の翻訳が行われず、ネオプラトニズムの著作がアリストテレスの著作だとして伝わることになった<ref>『岩波 哲学・思想事典』【イスラーム哲学】.p76-77</ref>

[[キンディー]]はイスラーム最初の哲学者と言われる<ref>『岩波 哲学・思想事典』【イスラーム哲学】.p76-77</ref>
[[アル・ラーズィー|イブン=ザカリーヤー・ラージー]]は、アリストテレスの哲学ではなく、原子論や[[プラトン主義]]の影響を受けた珍しい哲学を展開した<ref>『岩波 哲学・思想事典』【イスラーム哲学】.p76-77</ref>
[[ファーラービー]]は、[[唯一神|神]]から10の知性(=[[ヌース]])が段階的に流出(放射)すること、そして第10の知性が月下界を司っている能動知性で、そこから人間の知性が流出している、という理論を打ち立てた<ref>『岩波 哲学・思想事典』【イスラーム哲学】.p76-77</ref>。政治哲学の分野でも、アリストテレスを採用せず、(ネオプラトニスムでは忘れられていた)[[プラトン]]的政治論を採用した<ref>『岩波 哲学・思想事典』【イスラーム哲学】.p76-77</ref>
'''[[イブン=シーナー]]'''([[アヴィセンナ]])はイスラーム哲学を完成させたと言われている。

イスラームのイベリア半島(スペイン)においては、[[イブン=ルシュド]]が、アリストテレス研究を究め、アリストテレスのほぼ全著作についての注釈書を著した<ref>『岩波 哲学・思想事典』【イスラーム哲学】.p76-77</ref>。そして[[イブン=シーナー]]のネオプラトニスムを廃し、純粋なアリストテレス主義に回帰しようとした<ref>『岩波 哲学・思想事典』【イスラーム哲学】.p76-77</ref>

==スコラ学==
ヨーロッパにおいて、
11-12世紀にかけて、[[大学]](universitas)で、[[リベラル・アーツ]]とこれを統べる哲学部、神学部、[[法学]]部、[[医学]]部の4学部ができ、これら諸学問の諸問題を、[[理性]]でdialectic([[弁証論]]的)に探究し、厳密な知識を獲得してゆく方法で発展していった<ref>『岩波 哲学・思想事典』【スコラ哲学】.p871-873</ref>。これは'''[[スコラ学]]'''と呼ばれている。

'''[[アンセルムス]]'''(1033 -1109)が、[[信仰]]から出発し、信ずることがらを理性によって可能な限り理解しようとした。信仰の真理を哲学的思考によって洞察してゆく神学的方法である<ref>『岩波 哲学・思想事典』【スコラ哲学】.p871-873</ref>。「'''fides quaerens intellectum''' (理解を求める信仰)」と呼ばれる<ref>『岩波 哲学・思想事典』【スコラ哲学】.p871-873</ref>

[[ペトルス・アベラルドゥス]](1079 - 1142)はdialectica ([[弁証論]])を探究し、スコラ学にそれをもたらした。アンセルムスとアベラルドゥスがスコラ学の土台を作ったとも言われるが、ここでは理性は神の存在を疑うために用いてはならず、「哲学は神学のはしためである。」とされたのである。

スコラ学は、[[トマス・アキナス]](1225頃 - 1274)と[[ドゥンス・スコトゥス]](1266? - 1308)の二人の学派の創設者によって発展し、前者は知性を、後者は意志を究極の原理とし、後に[[普遍論争]]へと発展していった。その後、[[ウィリアム・オッカム]](1285 - 1347)の[[唯名論]]によってスコラ学は衰退を始め<ref>シュヴェーグラー・上掲書(上)・251頁</ref>、[[14世紀]]に始まる[[ルネッサンス]][[15世紀]]に始まる[[宗教改革]]を経て、近代哲学が発展を始めるのである。

==近代哲学==
===合理論===
[[ルネ・デカルト]](1596
-1650)は、近代哲学の父とされる。デカルトは、あらゆる宗教的・政治的立場を超えた無前提という原理的な要求を満たすものとして、完全に疑わしい点がなければそれを一端は排除するという方法的[[懐疑論]]を提唱した。方法論的懐疑論を経て、どのような立場のものでさえ受け入れざるを得ないものとして「[[我思う、ゆえに我あり]]」という精神こそ、思考の実体であるとしたのである。デカルトは、そこから、翻って、「我思う、ゆえに我あり」と同じ程度に自明性をもつものであれば疑う余地はあるが、確実であると看做してよいとして懐疑論を脱し、その延長として、不完全な我の思考が完全な概念を知っていることこそ完全なる神の存在証明であり、真理であるとする。そして、証明された神の存在から実体である精神とは明確に区別され、これと並び立つ実体である「物」が導き出されるのである<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・13頁</ref>。このようなデカルトの精神・物の主観・客観の[[実体二元論|二元論]]は、近代的な[[自然観]]、[[世界観]]の方向付けに多大な影響を与え、近代科学の基礎を築くことになり、[[合理論]]と呼ばれる。また、二元論は[[心身問題]]のような哲学上の難問を生むこととなった。

[[ニコラ・ド・マルブランシュ]](1638-1715)は、デカルトの理論を受け継くと共に[[アウグスティヌス]]の理論との統合を目指した<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・29頁</ref>

[[スピノザ]] (1632 - 1677)は、デカルトが精神と物を共に実体であるとしたことに誤りがあると考え、自然のみが唯一の実体であり、これが神であるとした。ただし、ここでの神はキリスト教的な人格神ではないので、[[汎神論]]と言われる。スピノザにおいては、精神と身体は独立はしているが、唯一の実体である自然の属性に過ぎないとされるのである<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・32頁</ref>

===経験論===
デカルトの二元論は、精神と物体を独立の存在とした。そのため、デカルトの理論を承継するものは、二つの方向に分かれることとなった。その一つが物の側面から理論を発展させた[[経験論]]である<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・43頁</ref
>

経験論の先駆者は[[ホッブズ]] (1588 - 1679)である。ホッブスは、哲学と神学を厳密に区別し、哲学の使命は事物が感覚器官に与える作用を明らかにすることにあるとする。自然科学的知識に基づく原理的考察によれば、物を離れた実体は考えることはできず、経験によって人は認識を得るが、その目的は実生活の役に立つことである。万民の認識の目的は自己保存であり、万民の万民による闘争を自然状態として、[[社会契約]]を説き、中世封建的な服従契約を否定した。ホッブズの理論はヴォルテールに多大な影響を与えた<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・45頁</ref>

[[ジョン・ロック]] (1632 - 1704)は、近代経験論ないし[[唯物論]]の父とされている<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・43頁</ref>。ロックは、赤ん坊を見れば容易にわかるように、人の悟性はそもそも白紙([[タブラ・ラーサ]]、羅:tabula rasa)であり、すべての認識は経験に由来する。したがって、[[生得論|生得観念]](innate ideas)は存在しないとした。もっとも、ロックは、音とか色とかいった全く受動的に悟性に外部から押しつけられる単純観念としからざる複合観念を区別し、単純観念の経験を通じて実体概念が生じたとするものの、それが主観の外に存在する客観的実体と一致する可能性を承認する点で不徹底なものであった<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・48頁</ref>

[[デイヴィッド・ヒューム]](1711- 1776)は、ロックの理論を推し進めて、すべての知識は経験を通じて得られるものであって、実体概念は存在しないとする。そこからヒュームは[[因果関係]]は習慣に基づく推理に過ぎず、統一された[[自我]]という概念さえ幻想であって、それは次々に表れる[[表象]]の複合体に過ぎないとし、徹底した経験論・懐疑論に立った<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・55頁</ref>。ヒュームの因果関係批判は後にカントに多大な影響を与えることになる。

[[ヴォルテール]](1694-1778)によって準備された18世紀[[フランス]][[啓蒙主義]]は、経験論を更に突き詰めて、[[ラ・メトリー]](1709-51)の『人間機械論』、[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]](1723-89)の『自然の体系』によって唯物論・[[無神論]]にたどり着く<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・65頁</ref>。。

===観念論===
デカルトの二元論を精神の側面から理論を発展させたのが[[観念論]]である。[[ゴットフリート・ライプニッツ]](1646 - 1716)は、スピノザと同様に、デカルトが精神と物を共に実体であるとしたことに誤りがあると考えたが、スピノザとは逆に、生動的で霊的な存在である[[モナド]]のみが唯一の実体であるとした<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・74頁</ref>

ライプニッツの理論は、[[クリスティアン・ヴォルフ]](1679-1754)に受け継がれた<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・91頁</ref>

[[ジョージ・バークリー]] (1685 - 1753)は、ライプニッツの理論を推し進めて、物は表象する精神の外部にあるのではなく、観念は観念の外にでることはできず、存在するのはただ精神のみであるとした<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・88頁</ref>

このように議論が錯綜する中で、観念論と経験論の調停を試みたのが[[イマヌエル・カント]](1724-1804)である<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・102頁</ref>。カントは、もともとはライプニッツ=ヴォルフ学派に属していたが、『[[純粋理性批判]]』(1781)、『[[実践理性批判]]』(1788)、『[[判断力批判]]』(1790)を著し、従来のすべての哲学ないし形而上学を批判した。特に『純粋理性批判』は、直観と思考、感性と悟性の二大要素を際立たせつつ、われわれは[[物自体]]を認識することはできず、[[現象]]のみを認識するにすぎないが、認識不可能な物自体こそ経験の成立条件であるとして両者の総合的統一を行い、[[認識論]][[コペルニクス的転回]]をはかり形而上学および認識論に革命をもたらした、とされている。カントの哲学は、キリスト的な伝統に基づく倫理性・誠実性を有しつつも、時代の自由主義的風潮とマッチしただけでなく、その結論の斬新性とその原理の応用力の広さから、幅広い知識階級から支持され、広く巷間に知れ渡った<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・163頁</ref>

その後、カントの影響を受けたいわゆる[[ドイツ観念論]]において、観念論はその内部で対立しつつも、理論的な発展を見ることになる。カント理論の要諦は、物自体と現象を区別し、前者に含まれる神、魂の不滅、自由、万物の原理などの従来の形而上学的な諸命題は証明不可能であることは証明できるというものであった。ところが、ドイツ観念論者は、この点がまさに承服し難かった。カント哲学の反対者の[[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]](1743 - 1819)は、カントの論理を逆手にとり、神的なものは証明できないということこそ神的なものの本質であるとして信仰哲学の立場を明らかにした。また、[[フィヒテ]](1762 - 1814)は、統一的に把握されるべき自我の概念が物自体を把握できない理論的自我と実践的自我の二元的に分かれている点に不十分な点があるとしてカントの理論を発展させ主観的観念論を提唱した。[[シェリング]](1775 - 1854)は、フィヒテを批判し、[[自然哲学]]をも取り込んで体系化し、客観的観念論を提唱した<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・163頁</ref>

[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]
](1770 - 1831)は近代哲学の完成者とされている。『[[精神現象学]]』(1807)は、直接的な意識から始まり、即自から対自、存在から絶対的知識へ発展し、現象の背後にある物自体を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になるまでの過程を明らかにすることを目的として執筆されたものである。『[[エンチクロペディー]]』(1817、1827、1830)は、ヘーゲル哲学の体系書であり、論理学、自然哲学、精神哲学の三部からなり、それが正・反・合の弁証法に対応し、最後に多くの円からなる一つの閉じられた円にほかならない絶対的哲学の立場が表明されるのである<ref>シュヴェーグラー・上掲書(下)・273頁</ref>

== ヘーゲル以降 ==
ヘーゲルによれば、すべての哲学は観念論であって、絶対的哲学たる絶対的観念論の出現によってすべての哲学は終焉を迎えるはずであったが、ヘーゲルの死後、いわゆる「観念論の崩壊」が始まる
<ref>シュネーデルバッハ・上掲書5頁</ref>[[ヘーゲル学派]]は、分裂と対立を繰り返し、やがて学問の世界から放逐された。[[歴史学]]が哲学に代わって学問的教養の母体とされるようになり<ref>シュネーデルバッハ・上掲書46頁</ref>、19世紀から20世紀にかけて[[歴史主義]]の時代が始まる<ref>シュネーデルバッハ・上掲書48頁</ref>。彼らからすれば、ヘーゲルの哲学史は、歴史学の研究材料を一つの先入観に従わせようとするものであり、歴史哲学の一事例にすぎないとされたのである<ref>シュネーデルバッハ・上掲書58頁</ref>

歴史主義の最初の批判者は、[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]であり<ref>シュネーデルバッハ・上掲書84頁</ref>[[フリードリヒ・ニーチェ]]がその後を継いだ。ニーチェは、歴史学は生に従属すべきものであるとしたのである<ref>シュネーデルバッハ・上掲書88頁</ref>

1830年以降、哲学一般に対する疑義は「批判としての哲学」を生む。[[キルケゴール]]によるヘーゲル批判は、もはや既存の哲学論争に収まるものではなく、むしろ反哲学の立場の表明であった。その立場は、[[カール・ヤスパース]]、[[マルティン・ハイデッガー]]に受け継がれていく<ref>シュネーデルバッハ・上掲書143頁</ref>

他方で、「哲学の復権」を図る流れの中から[[新カント主義]]が生まれた。同様の流れにあるものとして、「厳密な学としての哲学」を著わした[[エトムント・フッサール]][[現象学]]がある。哲学を規範意識の学として定義し直した[[ヴィルヘルム・ヴィンデルバント]]や、[[帰納的形而上学]]を提唱した[[ヴント]]も同様の流れに位置づけることができる<ref>シュネーデルバッハ・上掲書146頁</ref>

==日本の哲学==
[[西田幾多郎]](1870 - 1945)は、フッサール現象学などの[[西洋哲学]]および[[仏教]]などの[[東洋哲学]]の理解の上に、『[[善の研究]]』(1911)を発表、知情意が合一で主客未分である[[純粋経験]]の概念を提起した。またその後、[[場所の論理]]あるいは[[無の論理]]の立場を採用した。彼の哲学は「[[西田哲学]]」と呼ばれるようになった<ref>『岩波 哲学・思想事典』【西田幾多郎】.p1207-1208</ref>

[[井筒俊彦]](1914 - 1993)は、[[イスラーム思想]]を研究し、Sufism and Taoism(1966-67、1983)では、[[イスラーム]][[老荘]]の神秘思想を分析し、それらがともに持つ一元的世界観を指摘し、世界的にも高い評価を得た。そして晩年には『[[意識と本質]]』(1983)などを著し、東アジア・インド・イスラーム・ユダヤの[[神秘主義]]を元に、ひとつの東洋哲学として構造化することを試みた。<ref>『岩波 哲学・思想事典』【井筒俊彦】</ref>

東洋にも哲学はありインドと中国は大きな影響を持っている。日本哲学は伝統的には中国の影響を受けて来たが、現代ではヨーロッパの影響も無視出来ないものがある。
これと同時に、日本におけるヨーロッパ哲学の研究は、全く異なる生活現場でヨーロッパ同様にヨーロッパ哲学を扱うことは奇妙であり、伝統を汲まない、必然性を欠いたものであるといった指摘もある。日本のヨーロッパ哲学の研究者が、徹底的な議論をすることなく、むしろ議論の場を作らせず、ヨーロッパの哲学とはほど遠い、哲学とはほど遠い現状がある
<ref>『哲学者とは何か』中島義道</ref>

== 参考文献 ==
<!--ここは実際に出典として使用した文献 -->
*『世界大百科事典』平凡社

*[[フリードリヒ・カール・アルベルト・シュヴェーグラー]]著・[[谷川徹三]]・松村一人訳『西洋哲学史(上・下)』(岩波文庫)
* 熊野純彦『西洋哲学史』(上・下 2冊)岩波新書、2006、ISBN 4004310075、ISBN 4004310083

==関連文献==
===西洋哲学史===
*[[バートランド・ラッセル]]著・市川三郎訳『西洋哲学史1~4』(みすず書房)
*ヘルベルト・シュネーデルバッハ著・舟山俊明訳『ドイツ哲学史』(法政大学出版局)

* 新田義弘『哲学の歴史』講談社現代新書、1989、ISBN 4061489771
* 今道友信『西洋哲学史』講談社学術文庫、1987、ISBN 4061587870(講義録、口語形式)
* 『原典による哲学の歴史』公論社、2002、ISBN 4771420025

* [[木田元]]『反哲学史』講談社学術文庫、2000 ISBN 4061594249

===東洋哲学史===
* 金倉圓照『インド哲学史』 平楽寺書店、1987、ISBN 4831300446


== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
*[[現代思想]]

*[[イスラム哲学史]]
*[[東洋哲学史
]]

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:哲学史|*]]
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