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  • 城田安紀夫 (カテゴリ 国際テロ対策・組織犯罪対策協力担当大使)
    大使として現地対応に当たる。 イラク日本人人質事件では情報収集にあたり、イラク復興信託基金(IRFFI)に関する東京会合では議長を務めた。駐イラン大使時代は、イランの核開発問題に対応。 2024年、瑞宝中綬章受章。 佐々江賢一郎(12年駐米大使・10年外務事務次官・08年政務担当外務審議官)…
    6キロバイト (687 語) - 2024年5月3日 (金) 01:30
  • 事件発生。3月7日、ロシア当局および北カフカス・イングーシ共和国の治安責任者がチェチェン人4人を容疑者として拘束。 3月5日 - 韓国・ソウルで、朝食会に出席していたマーク・リッパート駐韓アメリカ合衆国大使が、2010年7月に在大韓民国日本国大使大使にコンクリー
    74キロバイト (9,946 語) - 2024年5月7日 (火) 17:39
  • 人質のうち235人が解放。 8月9日 アメリカ国務省、在ハバナ米大使館職員が「さまざまな身体症状」を訴えて国外退去を強いられているとして、キューバの外交官2人に国外退去処分を命じた。翌日にはカナダ外務省も、在ハバナ大使
    285キロバイト (38,114 語) - 2024年5月7日 (火) 19:01
  • 日本とアルジェリアの関係のサムネイル
    大使館が設置され、同年6月に駐日アルジェリア大使館を開設した。2013年1月16日、アルジェリアのイリジ県イナメナスにてアルジェリア人質事件が発生し、多数の日本人犠牲者が出た。 2011年3月に日本で発生した東日本大震災において、在アルジェリア日本大使
    15キロバイト (975 語) - 2024年1月20日 (土) 11:20
  • 日本とイランの関係のサムネイル
    事件を解決できなかったアメリカのジミー・カーター大統領は威信を大いに傷つけられ、大統領選での再選も叶わず、ロナルド・レーガンへの政権交代を許す一因となった。このアメリカ大使人質事件はレーガン大統領が就任してすぐに解決したが、この事件はイランとアメリカの関係を決定的に悪化させた。…
    61キロバイト (7,668 語) - 2024年5月8日 (水) 22:27
  • 7月1日 - バングラデシュの首都ダッカ市内ガルシャン(英語版)地区のカフェレストランにて、武装集団による襲撃・人質立てこもり事件が発生した。この事件に際してISIL(イスラム国)系のメディアが犯行を認める声明を出している。 7月3日 - バグダードのカッラーダ地区(英語版)の繁…
    94キロバイト (12,858 語) - 2024年5月7日 (火) 18:09
  • ジミー・カーターのサムネイル
    などがきっかけになり、イラン革命やその後のイランアメリカ大使人質事件を防げず、人質救出作戦「イーグルクロー作戦」にも失敗したことから、保守派から「弱腰外交の推進者」と言われることになった。イランにおけるアメリカ人の人質が解放されたのは、事件から実に444日後の1981年1月20日であり、皮肉にも…
    51キロバイト (6,070 語) - 2024年5月6日 (月) 10:20
  • 日本とイラクの関係のサムネイル
    1979年にイラクの隣国イランで革命が起こって王制が倒れ、イスラム共和国が成立すると、同年11月に首都テヘランのアメリカ大使館に暴徒が乱入してアメリカ人を人質に取る事件が起こるなど、ホメイニー師率いるイランはアメリカとの敵対姿勢を露わにした。1980年4月、アメリカはイランに国交断絶を通告し、…
    40キロバイト (4,739 語) - 2024年1月17日 (水) 03:52
  • 日本とペルーの関係のサムネイル
    大使公邸を襲撃し、今上天皇(当時)の63歳の誕生日を祝っていた400人以上の外交官僚及び軍関係者を人質に取った。彼らはフジモリ大統領がパーティーに出席すると思っていたが、大統領が出席していないと気づいた時、彼らはペルー政府に投獄されていた300人の同志の釈放を要求した。この事件は在ペルー日本大使公邸占拠事件…
    13キロバイト (1,633 語) - 2023年6月3日 (土) 17:52
  • 湾岸戦争のサムネイル
    リーを爆破するもので、十数名のアメリカ兵が死亡した。1998年にはケニアなどでアメリカ大使館爆破事件を起こし約200名を殺害。2000年にはイエメン沖でアメリカ海軍艦コールを攻撃した(米艦コール襲撃事件)。これらの事件
    98キロバイト (12,459 語) - 2024年5月3日 (金) 13:44
  • 在アメリカ合衆国イラン大使館のサムネイル
    在アメリカ合衆国イラン大使館(ざいアメリカがっしゅうこくイランたいしかん)は、かつてアメリカ合衆国に設置されていたイラン帝国の大使館。1979年のイラン革命とそれに続くイランアメリカ大使人質事件によって、両国の外交関係は断絶された。 モダニズム建築の大使館は1959年に建てられた。大使館には、大使
    8キロバイト (756 語) - 2023年1月14日 (土) 11:07
  • 日本とリビアの関係のサムネイル
    塩尻和子著『リビアを知るための60章 エリア・スタディーズ』 2006/8/9 日本の国際関係 リビアの国際関係(英語版) 在リビア日本国大使館 在日リビア人 駐日リビア大使館 ドバイ日航機ハイジャック事件 - リビアのベニナ空港で人質の解放がおこなわれた。 在リビア日本国大使館 駐日リビア大使館…
    22キロバイト (2,368 語) - 2024年1月16日 (火) 18:45
  • 朝鮮民主主義人民共和国の国際関係のサムネイル
    人質外交を受けて、「身辺の安全問題があるため、帰国させた大使館員を再び北朝鮮へ派遣するのは正しいことではない」として同年11月にマレーシアの在北朝鮮大使館は閉鎖された。これを受けて、以降も北朝鮮に大使館を置いている国は24ヵ国になった。 1975年に韓国・北朝鮮と南北同時修交した国であり、シンガ
    131キロバイト (18,043 語) - 2024年5月4日 (土) 02:57
  • ISILのサムネイル
    cebookを通じてバングラデシュ人テロリストのリクルート活動を行い、2016年7月1日、首都ダッカにおけるレストラン襲撃人質テロ事件を主導したとみられる。2015年にブルガリアを経由してイスラム国に入り、シリアのバーグーズで2019年3月15日に拘束された。日本人の妻と子供のうち2人は空爆で死亡…
    214キロバイト (29,285 語) - 2024年5月9日 (木) 23:55
  • ロシア内戦のサムネイル
    一方、ボリシェヴィキ政府では、7月の第5回ソヴィエトの開幕中に事件が発生していた。2名の左翼社会革命党党員がドイツ世論を憤激させようとして在モスクワドイツ大使を暗殺した。他の社会革命党員は数名のボリシェヴィキ指導者を監禁し、赤軍のボリシェヴィキ政府に対する蜂起…
    47キロバイト (3,306 語) - 2024年5月6日 (月) 23:18
  • 「ニクソン」(リチャード・ニクソン大統領の半生を描く) 「アルゴ」(1979年から1980年にかけて発生したイランアメリカ大使人質事件を描く) 「フロントランナー」(1988年米国大統領選挙に出馬したゲイリー・ハート(英語版)が女性スキャンダルで撤退するまでを描く) 「ブッシュ」(ジョージ・W・ブッシュ大統領の半生を描く)…
    60キロバイト (6,780 語) - 2024年4月26日 (金) 13:23
  • 日米豪印戦略対話のサムネイル
    日米豪印戦略対話 (カテゴリ マンモハン・シン)
    2013年1月13日 ^ 東京新聞 首相の初外遊 アジア3カ国 16日から 2013年1月10日 ^ ウォール・ストリート・ジャーナル 安倍首相、外遊日程を一部中止=人質拘束事件に対応 2013年1月18日 ^ MSN産経ニュース 対中脅威、即応力を強化 新防衛大綱、年内に策定 2013年1月26日…
    40キロバイト (5,352 語) - 2024年2月23日 (金) 20:36
  • ベニート・ムッソリーニのサムネイル
    1923年8月、第一次世界大戦の戦勝国による外交組織「大使会議」によるアルバニア、ユーゴスラビア、ギリシャなどバルカン諸国の国境線を確定するための調査が行われていたが、国境調査団のメンバーであったイタリア陸軍のエンリコ・テルリーニ(英語版)将軍が暗殺される事件が発生した。当初から領土問題に不満を持っていた…
    379キロバイト (56,256 語) - 2024年4月27日 (土) 12:15
  • 日本とレバノンの関係のサムネイル
    国交成立後、1954年に日本はベイルートに在レバノン日本国公使館を開設。1959年に大使館に昇格する。しかしレバノン内戦の激化で1986年には館員はベイルートから避難し事実上大使館は閉鎖され、シリアのダマスカスに仮事務所が開設された。1995年2月、大使館職員がベイルートに復帰し大使館再開。 一方、レバノン側は1957年、東京に駐日…
    19キロバイト (2,072 語) - 2023年9月4日 (月) 16:38
  • 竹島問題のサムネイル
    ICJ「連合国とブルガリア、ハンガリーおよびルーマニアとの平和諸条約の解釈に関する勧告的意見」(1950)、「カメルーンとナイジェリアとの間の陸地および海の境界に関する事件」の先決的抗弁に関する判決(1998.6.11, 先決的抗弁5)、常設国際司法裁判所判決「マヴロマチス事件
    132キロバイト (13,010 語) - 2024年5月7日 (火) 23:23
  • 一方、フランスでは、プロイセン人が人質を取る習慣を再び定着させた。人質とは、他人の行為に命を賭して答える無辜の民のことである。ティエールは、紛争の当初から、コミューンの捕虜を射殺するという人道的な方法を取っていたが、コミューンは、自分たちの命を守るために、プロイセン流の人質確保という方法に頼らざるを得なくなった。人質
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