後堀河院民部卿典侍

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後堀河院民部卿典侍(ごほりかわいんのみんぶきょうのすけ、1195年建久6年)- 没年不詳)は、鎌倉時代前期の女流歌人藤原定家の娘、藤原因子(ふじわらのいんし/よるこ)。母は藤原実宗の娘[* 1]

経歴[編集]

1205年(元久2年)より後鳥羽院に出仕。承久の乱以降は、安嘉門院に出仕。1229年(寛喜元年)、九条竴子(後に藻璧門院)付の女房として後堀河天皇の内裏に出仕し、後に典侍となる。1233年(天福元年)出家。『新勅撰和歌集』以降の勅撰集歌合家集等に作品を残している。

逸話[編集]

  • 1205年(元久2年)、十歳頃に日吉社百日の参籠を行っている[1]。この後、後鳥羽院への出仕を始めるので、そのための願掛けをしたと考えられている[2]
  • 亡き藻璧門院が人の夢に現れて歌を詠むというできごとがあった[* 2]。また、同じ女院の夢告によって、女房達が嵯峨の釈迦如来に参詣するようになったと、父定家に報告している[3]

作品[編集]

勅撰集
歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数
千載和歌集 新古今和歌集 新勅撰和歌集 典侍因子  2
続後撰和歌集 後堀河院民部卿典侍  7 続古今和歌集 後堀河院民部卿典侍  2 続拾遺和歌集 後堀河院民部卿典侍  5
新後撰和歌集 玉葉和歌集 後堀河院民部卿典侍  2 続千載和歌集 後堀河院民部卿典侍  1
続後拾遺和歌集 後堀河院民部卿典侍  1 風雅和歌集 後堀河院民部卿典侍  1 新千載和歌集 後堀河院民部卿典侍  1
新拾遺和歌集 後堀河院民部卿典侍  2 新後拾遺和歌集 新続古今和歌集
定数歌歌合
名称 時期 作者名表記 備考
中宮和歌会 1232年(貞永元年)6月25日[4]
大殿七首歌合 1232年(貞永元年)7月10日
光明峰寺入道摂政家十首歌合 1232年(貞永元年)7月 民部卿典侍 九条基家と番い勝3負2持5(負3持4とも)
名所月歌合 1232年(貞永元年)8月15夜 民部卿典侍 九条道家と番い負2持1
私家集
  • 『民部卿典侍集』
    • 続群書類従 16下 和歌部 第四四九、私家集大成3(契沖筆三手文庫蔵本)等。
    • 83首。主人だった藻璧門院を失ったことによる哀悼歌集的な性格の小歌集。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 藤原為家の同母姉にあたる。
  2. ^ 『民部卿典侍集』と『明月記』に同じ夢想歌が掲載され、この父娘にとって、印象深いできごとだったことがうかがえる。

出典[編集]

  1. ^ 『明月記』 元久二年七月五日条
  2. ^ 明月記研究会 「『明月記』(元久二年五月~閏七月)を読む」 『明月記研究 10: 記録と文学』 2005年12月
  3. ^ 『明月記』 天福元年十二月一日条
  4. ^ 百錬抄

参考文献[編集]

  • 森本元子 『古典文学論考―枕草子 和歌 日記』 研究叢書 (29) 1989年1月 新典社 ISBN 978-4787940292
  • 森本元子 「民部卿典侍の生涯」 『相模女子大学紀要』 (47),p1-12 1983年 相模女子大学
  • 本位田重夫 「後堀阿院民部卿典侍集覚書」 『国文学』 29,97~106 1960年10月 関西大学国文学会

関連項目[編集]