建礼門院右京大夫

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建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ、旧字体建禮門院右京大夫保元2年(1157年)? - 没年未詳)は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての女流歌人。名は伊子(いこ)とする説がある[1]。父は日本最古の書道に関する書物「夜鶴庭訓抄」と源氏物語に関する最初期の注釈書である「源氏物語釈」を著した藤原(世尊寺)伊行。母は大神基政の娘で(そう)の名手である夕霧であり、書道・文学・音楽に恵まれた環境に育つ。

承安3年(1173年高倉天皇の中宮建礼門院平徳子に16歳より右京大夫として出仕。藤原隆信平資盛と恋愛関係にあり、資盛の死後、供養の旅に出たという。建久6年(1195年)頃後鳥羽天皇に再び出仕した。

宮廷の華やかさと平家の没落を女性の視点から記した「建礼門院右京大夫集」が有名である。

歌とともに、長文の詩書(ことばがき)が記された私的な日記ともいえる家集で、1232年頃、藤原定家後鳥羽上皇から勅撰集を作るように命じられ、当時の歌人たちに家集を出してほしい、と求められた右京大夫(当時70歳過ぎ)が提出した作品。右京大夫の若かりし頃の宮廷の華やかさと、朝敵とされ、壇ノ浦で滅びていった恋人、平資盛との悲しい死別を懐古した歌集で、太平洋戦争中、愛する者の出征を見送った女性たちの間で愛読されたという。

江戸時代に塙保己一(はなわ ほきいち)が古書の散逸を危惧し、収集・編纂した「群書類従」(ぐんしょるいじゅう)では、「建礼門院右京大夫集」は上と下に分かれており、上巻は、宮廷の雅さや、平資盛との出会いが描かれ、下巻は、平家一門が都落ちする、緊迫する場面から始まる。

山路の露』の作者であるとする説がある。

和歌[編集]

  • いかにせむわが後の世はさてもなほ昔の今日を問ふ人もがな
  • 書きつけばなほもつつまし思ひ嘆く心のうちを星よ知らなむ
  • 七夕のけふやうれしさ包むらむあすの袖こそかねて知らるれ
  • さまざまに思ひやりつつよそながらながめかねぬる星合の空
  • 天の河漕ぎはなれゆく舟の中のあかぬ涙の色をしぞ思ふ
  • きかばやなふたつの星の物語りたらひの水にうつらましかば
  • なにごとをまづかたるらむ彦星の天の河原に岩枕して
  • 天の河けふの逢ふ瀬はよそなれど暮れゆく空をなほも待つかな
  • ながむれば心もつきて星合の空にみちぬるわが思ひかな
  • いつまでか七 (ななつ) のうたを書きつけむ知らばやつげよ天の彦星

関連作品[編集]

小説
  • 『建礼門院右京大夫』(1975年、大原富江著、講談社)
テレビドラマ
アニメーション

脚注[編集]

  1. ^ 角田文衛『日本の後宮』、学燈社、p.299

関連項目[編集]